『 さしゑ』には、中村不折・小川芋銭・石井柏亭・斎藤與里・前川千帆・橋口五葉・平福百穂・渡邊與平・小川千甕・下村為山・岡本月村など34名によるこま絵205点が掲載されています。
これらのこま絵を40点程ずつ5回に分け紹介しようと思っています。
与平は結婚して3年目、24歳の時に二人の子供と妻を残して夭逝してしまう。妻子への愛情溢れる絵をたくさん残して、若死にした与平は、よほど無念であったろうと、察するに余りあるものがあります 。
残された妻・渡辺文子は、文展で活躍する女流画家でもあるが、二人の子供を抱えて生活に困り、広告の仕事やさしえなどで生計を立てていた。文子の描く挿絵はどことなく与平の絵を彷彿させる。画像は、渡辺文子:画「人形のきもの」1916年(日本の童画5』第1法規、昭和56年)より転載。
◆渡辺与平略年譜◆
明治22年長崎市生まれ。旧姓は宮崎。日本画を学ぶため京都市立美術工芸学校絵画科に入学、在学中に鹿子木孟郎の私塾にも通う。明治39年に中村不折にあてた鹿子木孟郎からの紹介状を持ち上京、太平洋画会研究所に入所、中村不折に師事し本格的な洋画の指導を受ける。この年はじめて『ホトトギス』にコマ絵が掲載された。明治41年の第2回文展で《金さんと赤》が初入選。翌年の42年に不折の仲人で満谷国四郎門下の女性画家・渡辺ふみ子(のちの亀高文子)と結婚し、以後渡辺姓を名乗る。明治43年、第4回文展で妻ふみ子をモデルに描いた《ネルのきもの》が三等賞を受賞。『ヨヘイ画集』(春秋社)を刊行。翌明治44年、第5回文展に《帯》と《こども》の2点が入選。
コマ絵の仕事では、1906(明治39)年にデビューして以来、『ホトトギス』をはじめ、『国民新聞』や『少女の友』などで活躍し、1910年に巖谷小波「世界お伽文庫」の挿絵、小川未明童話集「赤い船」の表紙と挿絵、こま絵を集めて掲載した「ヨヘイ画帖コドモ」「ヨヘイ画集」を出版する。竹久夢二の「夢二式」に対して「ヨヘイ式」と呼ばれた画風で人気を博し将来を嘱望されたが、明治45年6月に喉頭結核と肺炎を患い、24歳の若さで他界した。