『丹下左膳』の誕生


大正15年7月から始まる「苦楽」への連載、林不忘「釘抜藤吉捕物覚書」、大正15年12月、「中央公論」に連載した谷譲次「もだん・でかめろん」、昭和2年「めりけんじゃっぷ」が、昭和2年7月「新青年」にはシリーズ「めりけんじゃっぷ商売往来」の連載が始まるなどなど、一人三人の活躍をする。


この活躍に目をつけた「サンデー毎日」編集長・千葉亀雄が、時代物の小説を書くように勧め、林不忘『新版大岡政談』が「大阪毎日新聞東京日日新聞」で始まることになった。


伊禮次五郎は
「東京日日、大阪毎日両社を代表して千葉亀雄氏が彼を訪問、『何でもいいですから、商売仇の××新聞を、びっくりさせるやうな大衆小説を書いて下さい。最初から矢鱈に人を斬りまくるやうな……』これが『新版大岡政談』となったのであるが、この交渉を受けた時の彼の喜びやうといったらなかった。もう大衆文壇に確かりした地位を築いたのである。彼は銭湯へ行ったが、『矢鱈に斬りまくる…競争新聞を驚かせる…大衆をあっといはせる…』ことばかり考へてゐたので、家に帰る時は着物だけ、ひっかけていた。帯と石鹸と手拭は後から和子夫人が取りに行くという始末であった。」(『牧逸馬の一生』講談倶楽部、昭和10年


と、当時の様子を新聞小説の話が飛び込んできたことに喜び、日常生活に支障を来すほどに夢中になっている様子をよく伝えている。



丹下左膳の最初映画ポスターといってもいい『新版大岡政談第一篇』(昭和3年)には、丹下左膳の姿はなく、大岡越前だけだった。


昭和5年の日活の「続大岡政談 魔像篇』ポスターでは大岡越前に代わって丹下左膳が登場している。この左膳って、両目を見開いていないですか? ともあれ左膳が主役に躍り出た瞬間です。



昭和2年10月から始まった『新版大岡政談』では、小田富彌の挿絵がさらに評判を高めた。新聞小説の人気に注目した映画会社が映画化を企画し、当時はまだ無声映画だったが、日活、マキノ、東亜、帝キネの4社競作となり、昭和3年5月に華々しく封切りとなる。


4社ともに題名は同じ「新版大岡政談」で、大河内傳次郎を主演にした日活、マキノは嵐寛寿郎を、東亜は団徳麿を主演に、帝キネは松本三郎を擁立している。特に伊藤大輔監督による「新大岡政談」第1篇、第2篇、第3篇解決篇(昭和3年)は当時の「キネマ旬報」ベスト・テン第3位なるほど評判が高かった。


後に、トーキーで再生することになった大河内傳次郎が演ずる左膳の台詞「シェイは丹下、名はシャゼン」は、はやり言葉になるほどで、今ならさしずめ「流行語大賞」を受賞するほどのものかも知れないですね。