『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』など優しさあふれる手塚漫画と殺人鬼『丹下左膳』は、どう考えても結びつかないように思えるが、あるんです、手塚治虫が描いた『丹下左膳』が。


手塚 治虫(てづか おさむ)初期のみおさむしと読ませた。本名:手塚 治、1928〈昭和3〉年11月3日 - 1989〈平成元〉年2月9日。漫画の神様とも呼ばれている。
ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『どろろ』『火の鳥』『陽だまりの樹』などなど、どれをとっても代表作といえるものばかりで、手塚治虫の偉大さがわかろうというもの。手塚は、自らの悲惨な戦争体験と医学生の時、人間の死を見つめた経験から、子どもたちに生涯を通して「いのちの大切さ」を訴え続けた。日本初の連続テレビアニメを世に送り出すなど、テレビアニメの始祖でもある。


今回入手したのは林不忘原作、手塚治虫丹下左膳』(『手塚治虫漫画全集講談社、1981年)。



1946年(昭和21年)18歳 大阪大学医学部に入学
1948年(昭和23年)20歳 大阪大学付属病院に勤務
1952年(昭和27年) 24歳 新宿区四谷に下宿
1953年(昭和28年) 25歳 椎名町トキワ荘に移る
1954年(昭和29年) 26歳 雑司ヶ谷並木ハウスに移る


手塚治虫丹下左膳』は、昭和29年12月号「おもしろブック」付録として刊行された。手塚が上京するのが昭和27年なので、上京して2年目、26歳の時に刊行されたものだ。

この作品は自分から企画したものではなく、編集部からのリクエストによって描かれたもの。当時ようやく定着しつつあった手塚治虫カラーを崩さないようにと、丹下左膳の顔の傷をピエロをイメージしてデフォルメするなど、細心の注意をはらって描かれたという。そうだよね、どう考えても結びつきそうにないものね。


丹下左膳後編に当たる『こけ猿の壺』を選んだところに手塚らしさを感じますがね。あの殺人鬼と言われた左膳が、「こけ猿の壺」ではまるで違う人物になって、みなしご・チョビ安の父親代わりをするなど、人間味あふれる優しい左膳に豹変しているからだ。


左膳が腰の右側に刀を差しているのは、映画を観た影響なのか? 小田富彌や志村立美が描いた挿絵ではいずれも腰の左にさしていたはずだが、私が見た大河内伝十郎主演映画のDVDでは、右の腰に刀を差していた。実際に演じるには、左の腰に刀を差し、左の手で刀を抜くのは難しかったのだろう。


この後、手塚治虫は、同じ「おもしろブック」の1955年3月号付録として『乾雲坤竜の巻』(けんうんこんりゅうのまき)を発表していますが、この時は手塚治虫が病気となってしまったため、手塚治虫自身が執筆したのは表紙と2色8ページのみで、あとは代筆となっています。