挿絵家の地位向上


「作と絵はそれぞれに対等の力と価値をもつものであらねばなければならない、──十年以前の新聞の続きものヽ殆ど大部分が、絵は作の従で、甚だしきははなはだしきは版下絵と呼ばれ、当の画家も本気で描かなかった、あれではならない──といふ一事でした。そこで、今でこそ珍しくないが、私は『大菩薩峠』から、毎日の紙上、作家と画家の名の活字の大きさを、同型に改めました。」(新妻莞『大菩薩峠』〈序に代へて〉、昭和9年



鶴三の『東京』で描いた挿絵が大変な評判で、「大菩薩峠」の挿絵を依頼されたときには、上記写真のように、新聞小説の挿絵画家名は著者と同じ大きさの活字で並記されるようになった。