最近はもっぱらネットで購入していたが、昨日久しぶりに高円寺の古書市や都丸書店、荻窪の岩森書店、ささま書店、などをまわって、リュックに入らないほどの古本を購入してきた。そのうちの何冊かを紹介させていただきます。



中里介山大菩薩峠絵本(私家版)』(春秋社、平成20年8月22日、創業八十周年記念非売品)
この本は、段ボールの箱に入っており、まだ刊行されて間もない新品だ。


巻末の「復刻版刊行に当たって」によると、
春秋社刊の『大菩薩峠』普及版によって昭和11(1936)年4月、中里介山自身が隣人の友社から刊行した『大菩薩峠絵本、第一』のなかから、「介山序文」「口絵」「鳥瞰式絵解」と冒頭「甲源一刀流の巻」を復刻したものです。」
とある。もともと発行部数の少ない貴重な本を復刻してくれたのは大変嬉しい。この本の存在は書物等で読んで知ってはいたが、復刻とは言え、実際に手に取れるとは、大いに感激させられ、手に取ってタイトルを見た瞬間にレジに走っていました。


中里介山(1885年〈明治18年〉4月4日-1944年〈昭和19年〉4月28日)は、明治39(1906)年21歳で、都新聞社へ入社。明治42(1909)年、「都新聞」に処女作「氷の花」を連載。大正2(1913)年9月12日から「都新聞」に「大菩薩峠」を連載。大正4(1915)年、介山30歳の時に、弟幸作に古本屋・玉流堂を開かせ、大正7(1918)年、『大菩薩峠』〈甲源一刀流の巻〉を自家製和装本として玉流堂から自費出版する。大正10(1921年、春秋社から『大菩薩峠』の出版が決まり、出版記念会が催される。大正15(1926)年、 隣人之友社を創設し、「隣人之友」を創刊する。昭和7(1932)年春秋社に大菩薩峠刊行会を創設。


昭和9(1934)年、『大菩薩峠』の挿絵について石井鶴三との間に著作権問題がおこる。石井鶴三は「大菩薩峠」新聞連載で描いた挿絵を1冊にまとめ『石井鶴三挿絵集第一巻』(光大社、昭和9年)として刊行した。中里介山はこの出版に「挿画は画家の作に非ず、本文の複製なり、その著作権は本文作者にあり」と、クレームをつけ、出版社と鶴三を訴訟した。


このような流れの中で昭和11年に刊行されたのが、この『大菩薩峠絵本(私家版)』の元本『大菩薩峠絵本、第一』だ。この本の序文には、
本書は拙書『大菩薩峠』の或部分をとってこれを連續的の一つの絵本にしたものである。口繪は都新聞時代最初の縁故によって、井川洗崖さんい彩筆を振って貰ひ、まづ「大菩薩峠十人女」といふ題目で、本巻には、お濱とお豊と間の山のお君とを出して貰った。それから、同じく都新聞時代の縁故によって代田収一君に鳥瞰式繪解を描いて貰った。線画の全部は皆新進畫家野口昂明君の筆に成るものである。


本書は新聞の續きものゝ挿絵とは違ひ尚一層念を入れて繪本とし発行する為に小生が特に註文して野口君に描いて貰ったものである。小説に於て本文の作者とその畫家とは最も仲をよくすべきものであって、決して喧嘩をしてはならないものである。世間には繪の為に文章を書いてやるべき場合もあるだろうが、此の大菩薩峠の場合に於ては本文大菩薩峠著作精神の為に繪を描いて貰はなければならぬ。大菩薩峠の場合のみでは無い、すべて挿繪といふ以上は本文あっての挿絵で、本文は挿絵がなくとも成立するが、本文無きの挿絵といふものは形なき影といふやうなもので全然想像が出来ない。若し畫家が何か自分の芸術心を誇示したい為にやるならば、独立の境地はいくらもある。他の挿繪や繪本等をお描きにならないがよろしい。


併し、獨創畫であらうとも、挿絵であらうとも其處に現はれた畫家の畫心といふものは同様に尊重しなければならぬ。本文と挿繪との間に優劣が有らうともさういふ事は見る人の鑑賞に任せて置けばよろしい。余輩は野口君に、あらかじめこの事を話して置いて、野口君もよく合點をしてくれて一切の著作権、出版権は小生と並びに小生が経営する處の隣人之友社に歸属することの約束を定めてあるから後日問題の起りよう筈は無い。


と、述べており、この序文から、明らかにこの出版の狙いは、石井鶴三に対する当てこすりとしての性格の強い出版であったことがわかる。しかし、初めからちゃんと契約書を交わし、払うものを払えば、著作権や出版権の委譲は有りうる事で、鶴三への批判にはならない。