キネマ文字の華やかさとは裏腹に貧しい楽士もいた?

宮沢賢治は『セロ弾きのゴーシュ』を未完のまま遺して昭和8年に没した。『セロ弾きのゴーシュ』の出だしのくだりには、「ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾くかかりでした。けれどもあんまりじょうずでないという評判でした。」とあり、弁士とともに映画のストーリーに添って演奏をし盛り上げる楽士だった。


しかし、宮沢賢治が亡くなった昭和8年には、弁士や楽士という職業はすでになくなってしまっていた。昭和6年には本邦初の完璧なトーキー『マダムと女房』が制作され、また、同年に洋画の『モロッコ』が上映されるときに字幕スーパーが設けられ、それ以来弁士は不要となってしまったのだ。 

賢治がもっと長生きしていたら、このゴーシュの職業は変更され、書き出しの文章も書き直されていたかもしれない。




昨日掲載した昭和2年4月1日付けの東京朝日新聞に掲載された映画のタイトル「我れ若し王者なりせば」「キートン西部成金」が、今回掲載した広告にも同じ映画のタイトルがあるが、文字は全く違う書体になっている。つまり、今日の映画のロゴタイプのように決まったデザインが映画制作会社から送られてくるのではなく、上映する映画館で勝手にスペースに合わせて考えながら書いていたのが分る。


浅草帝国館のキャッチフレーズが面白い。4月1日には、「見逃せば必ず百年の悔ひ バンコク映画界空前の代行業」とあり4月8日は「果然愛活家連日連夜殺到」と、勇ましい。


「説明」とあるのはおそらく弁士の名前なのだろう。福地悟郎、石野馬城、徳川夢声等の名前がある。




この広告は同日の新聞に記載された広告だが、「イスラエルの月」は二つの映画館で上映されており、2ヶ所に見つけることができる。比較してみると武蔵野館のタイトル文字の方が「キネマしてるね〜♪」(アンルイス風に)