大同出版、桜井書店を興すまでの道のり


桜井均は高等小学校を卒業するとすぐに春江堂という出版社に奉公し、約8年ほど務める。関東大震災で春江堂は灰燼と化し、大阪に移転するのを機に春江堂を退社。大正12年22歳の時に独立する。このとき安岡夢卿『関東大震災実記』を出版、売に売れたという。その後、普通選挙法の注釈本を作るが大失敗。さらに塚原健次郎に創刊の字を書いてもらったりして、旬刊『小学生の新聞』を刊行するが、これも失敗に終わる。


大正13年には
・北島春柳『明暗の花』(銀線社出版、昭和13年
楽譜
・『歌劇アイーダ抜粋曲』(銀線社音楽部、昭和13年
・『タランテラ』
・『フォックストロット カングルーホップ』
などの発行人になっている。


大正14年下谷で三興社を起こし、下記のような出版物がある。
・流山竜之助『エロ・グロ男娼日記 』(三興社 , 昭和6.5)
・早川雪男『エロ商売百物語』(三興社 , 昭和6.5)
・大河内常平『拳銃横丁のダニ』( 三興社 , 1961.06)
・河田重三『埼玉県におけるねぎ生産地域の変容に関する研究』( 三興社印刷所 , 1990.8)
・エミ−ル・ゾラ原作『女優ナナ』(「抄訳世界文学叢書」三興社 , 昭和3.9 )
・海野不二『性愛十日物語』( 三興社 , 昭和6.5)
・多田道夫『ダンサ−とズロ−ス}( 三興社 , 昭和6.5 )
・近藤鹿堂『豊橋雷動〔ヒョウ〕記 』( 三興社 , 昭和11)
・桜井晩翠『日本一社蚕影神社御神徳記』( 三興社 , 1929.3)
・香川孟『裸のショップ・ガ−ル』( 三興社 , 昭和6.5 )
・安成貞一『猥談クラブ』(三興社 , 昭和6.5 )


経営は相変わらずうまくいかず、借金苦に追われる。が、窮乏生活の中昭和3年結婚する。


昭和6年、神保町に山洞書店を設立。分かっている出版物では
・渡辺彰平『新民事訴訟手続詳解』(山洞書院、1931、6)
・富田岩代『土に生きる』(山洞書院、昭和6)
・山洞書院編輯部編『変態エロ・グロデパ−ト 』(山洞書院、昭和6)
井上円了『妖怪学』(山洞書院、1930再版)
井上円了『妖怪学 』( 山洞書院、 昭和6)
・『プロレタリア科学辞典』
・『娯楽雑誌
などがあるが、思うようには行かなかず、まもなく閉鎖。

この頃のことを桜井は著書『奈落の作者』(文治堂書店、昭和53年)に
「私にとって、四十年程前の昭和九年という年は、よくもこんなに不運がつづくものか、と天を仰いで嘆じた程、ひどい目に会った年であった。郵便詐欺にかかったり、当たった無尽を搾取されたり、雑誌はつぶれる、店員は逃げ出す、女中も逃げ出す。遂には私は入院、そして七つの長女をも失うという悲痛な運命に陥った。この時ばかりは、つくづく神も仏もあるものか、と思った。」と、回想している。


さらに、起死回生の策として、通信販売で新聞広告料一頁百三十円を工面して英語の記憶法(書名は不明)を発行するが、これも見事に失敗する。


それにもめげず
「ある日雨の日の朝、ふと、インスピレーションを感じ、これだと勇気づいた。さあ、すぐさま広告の文案だ。私は日夜それに没頭した。……広告文案というのは、記事広告で、一種のインチキの匂いはあるが、例えば”法律を知らぬばかりに、とんだ悲劇を惹起す”の見出しを附け、一応社会に起きたいざこざの事例を短くあげ、記事で読者を誘い込んで置いて、広告に結びつける。


囲碁は定石の心を悟れ、定石を打って負けるはなぜか”といった具合のもので、将棋、礼儀作法、手紙の書き方その他既刊の実用書を記事風に綜合した新機軸で、画期的な広告ではなかったかと、今でも思うのである。」(前掲)と、易を信じての決断で一か八かの運命打開の賭けに出た。写真は桜井毅『出版の意気地』(西田書店、2005年)より転載したもので、昭和12年5月22日、大阪毎日新聞に掲載された大同出版名の通信販売ページ。



「私は、機運の醸成につとめながら、一方運命打開の策を、日夜練っていた。何分にも大きな痛手を受けているので、生半可な儲けでは挽回はおぼつかない。一挙に大儲けをたくらもうというのである。資金乏しくして成功を望むには、通信販売以外にないと思った。」(前掲)と、当時の心境を綴っている。