平福百穂(1877~1933)

 平福百穂(ひらふくひゃくすい),明治10年(1877) 秋田県角館に日本画家・平福穂庵の四男として生まれる。本名・貞蔵。13歳のころ父から運筆を習う。16歳で父の後援者・瀬川安五郎の支援の下,絵の修行のため上京,四条派の第一人者で東京美術学校日本画科の教授をしていた川端玉章の門人となる。後に盟友となる結城素明を知る。
 東京美術学校で学ぶ。活躍の主舞台は素明らと結成した「无声会(むせいかい)」。日本画に洋風の写実表現を取り入れた自然主義的画風で日本画の革新に乗り出し注目される。明治36年ころから伊藤左千夫正岡子規長塚節斉藤茂吉らと交友するようになり,アララギ派歌人としても活躍する。
 大正期(1912-1925)に入ると百穂の画風はさらに多彩となり,文展に「七面鳥」「豫譲」(第11回特選),「牛」を出品。また,「金鈴社」に「日本武尊・白鳥陵・相模海」「法然上人」などを出品。昭和元年(1926)には第7回帝展に代表作の一つ「荒磯」を出品し, 画壇における地位を不動のものにした。昭和7年に母校・東京美術学校の教授になるが、翌昭和8年10月,脳溢血で倒れ同月30日に享年57才で亡くなった。
著書『寒竹』、『日本洋画の曙光』、『竹窓小話』などがある。