恩地孝四郎装画「亜細亜詩脈」のコピーが送られてきた

shinju-oonuki2006-02-20

 
福岡市の創言社・坂口さんから手紙と「博多版元新聞」と「亜細亜詩脈」という詩誌のコピーが送られてきた。
私がこの表紙を見るのは全く初めてで、もちろん誌名も知らなかった。恐らく発行部数も少なく、坂口さんの手紙によると「創刊は1926年10月、12月号までの3冊の装幀は詩人・郡山弘史、1927年1月号(2-1、通巻4冊目)から9月号の7冊が恩地孝装幀の、同一表紙です。21年11月刊の通巻11冊目で終刊しています。」と記されている。
 
私は、今まで殆どその存在すら知らなかった見事な装丁の冊子を手にして、思わず感激し胸の鼓動が激しくなるのを感じた。パソコンを打つ右手がだるくなって、力が入らなくなるほど興奮した。坂口さんの許可は得ていないが、一応所蔵を明らかにして写真を掲載させてもらおうと思います。
 
亜細亜詩脈」は、内野健兒(のちに新井徹を名乗る)が1926年2月に「京城詩話会」を創立、同年10月「亜細亜詩脈協会」と改称。機関誌として「亜細亜詩脈」を京城府新橋洞14にて創刊、編集人、発行人となった。1927年6月警察高等科により6月号が発売禁止となり、同年11月終刊。(『スカラベ人名事典』を参照)。最終頁には委員として内野を含む9人の名前が列記されている。
 
昭和2年1月といえば、まだ前衛美術を取り入れたものは、恩地の単行本の装丁には見ることが出来ず、「感情」等の同人誌のような冊子でしかみらなかった。「亜細亜詩脈」は「感情」の装丁を引き継ぐ前衛美術の手法を取り入れたもので、装丁美術的には貴重なものであると思う。

アールヌーボーを思わせる曲線を含んだタイトル文字も見事だ。坂口さんに創刊号のタイトルがこのタイトルだったかどうかをを問い合わせれば分ることだが、多分、創刊号を装丁した詩人・郡山弘史が書いたのではないかと推察する。