大貫伸樹の造本探検隊43(柳瀬正夢装丁「地獄」

shinju-oonuki2005-10-11

画像が汚くて申し訳ない。函もない。この本は、柳瀬正夢(1900-1945)装丁、金子洋文『地獄』(自然社、大正12年5月)で、柳瀬の初期の装丁である。
 
 中央に何の絵が描かれているのかブログの画面では分かりにくいかもしれないが、手に取ってみても良くわからない。下の方には火の海が描かれているのか?
 
「川はすつかり涸れてしまった。水が一滴ものこさず、もえてゐる天空に吸い取られてしまつた。大きな岩石が所々に横はつている。それは呻いてゐる動物のやうに見えた。その動物を火のやうな小石が取圍んでいる。」という書き出しの部分を視覚化したのであろう。絵の雰囲気としてはシャガールを思わせる。

及部克人「時代に向かう装幀の奇跡」(「柳瀬正務疾走するグラフィズ厶」武蔵野美術大学美術資料図書館、1995年)には「箱の平に濃い灰色と赤による不等辺四辺形が斜めに配置されており、下から上へ上昇する空間を感じさせる。この不等辺四辺形は、1925年小川未明選集予約募集のポスターにも用いられている。1920年に上映された「ガリガリ博士」の影響として考えることができる。直線と曲線の抽象的な線と天の川の星のような点による空間と細い線の集合による面、空を飛ぶペン先などが上方の題字に向かって浮遊している。題字の抜き文字が、赤に染められ、「地獄」の意味が強調されている。本体の平の図像は、有機的な線が円状に渦を巻き、突き出された拳骨のようにも見える。異なる要素が有機的なまとまりをみせている第一期の傑作といえよう。」と教授も絶賛する名装丁である。
 
柳瀬は1915年(大正4年)第2回院展に油絵「光と風の流れ」が入選し、16才の少年画家として、頭角を現す。1921年(大正10年)、無産者の文藝雑誌、「種蒔く人」の同人として参加し、表紙絵などを描く、1921年(大正10年911月、木下秀一郎、大浦周蔵、浅野孟府等によって結成された「未来派美術協会」二酸化する。
 
1923(大正12)年、村山知義が独逸から帰国し、前衛美術家グループ「マヴォ」(Mavo )を結成。尾形亀之助大浦周蔵、門脇普郎、ブブノワ、柳瀬正夢などが参加した。この時、村山が持ち帰った、ドイツダダイズム反戦風刺画家ゲオルゲ・グロッスなどの作品は、その後の柳瀬の創作活動に、大きな影響を与えた。
 
浅草伝法院で1923年(大正12年)7月末〜8月似かけてマヴォ第一回展がひらかれ、この時柳瀬は構成主義の影響を受けた作品「五月の朝と朝食の前の私」を出品した。
 
 金子洋文『地獄』(自然社、大正12年5月)は柳瀬がちょうど前衛美術の影響を受けはじめた頃の作品で興味ある装丁である。