齊藤昌三が関係している本には何かと「最初の○○」という肩書きがついて回る。書物展望社から刊行された「ゲテ本の最初」が、内田魯庵『紙魚繁昌記』(昭和7年2月)で「自身の第一随筆集」が『書痴の散歩』(昭和7年11月)で、「ゲテ本の最初」が山中笑『共古随筆』(温故書屋、昭和3年)という。


最近入手した三田村鳶魚自由戀愛の復活』(崇文堂、大正13年5月)に、装丁家の名前は見当たらない。しかし、齊藤昌三「小雨荘裝釘記」(「書物展望」書物展望社昭和9年12月号)には、次のように記されている。



齊藤昌三の最初の装丁本? 三田村鳶魚自由戀愛の復活』(崇文堂、大正13年5月)


三田村鳶魚さんの『上野と浅草』は出版当時、自分も校正は手伝つたし、あの中の寛永寺の写真などは不器用な予が写したものを入れた関係などあって、同氏の『自由戀愛の復活』の時は万事版元の相談に与つた。この時は恋は闇である非倫の恋は三角であるといふ所から、表装は真黒いポプリンを使用し、三角の角度を鋭く背文字を中心に逆に描いて黄で箔押しにして見た。そして背の天に人の目を一つ置いて隠しごとは出来ないといふ表徴にして見た。但し絵心がないので下絵は渋谷修君に描いて貰つた。」(齊藤昌三「少雨荘装釘記」、「書物展望」昭和9年


とあり、これも最初の一つとすると、さしずめ「齊藤昌三の初めての装丁」ということになるのか。

白樺の皮、蓑虫、紙型、古新聞などなど、齊藤昌三関連本は装丁資材の博物館

・番傘を400本も集めた斎藤昌三『書痴の散歩』(書物展望社昭和7年
・白樺の皮裝、横光利一『雅歌』(書物展望社、』昭和7年12月)
・ミノムシ30,000匹も集めた小島烏水『書斎の岳人』(書物展望社、昭9年)
・装画をネームプレート仕様にして嵌入した齊藤昌三『げて雑誌の話』(書物展望社、昭19年)
活版印刷の紙型応用、斎藤昌三新富町多與里』(芋小屋山房、昭和25年)
・古新聞を貼込んだ齊藤昌三、柳田いずみ編『魯庵随筆読書放浪』(書物展望社昭和7年
マッチラベルを木版で復刻、斎藤昌三『日本好色燐票史』(書物展望社、昭23年)
などなど、この他にも変化に富んだ装丁資材を用いた装丁は数えきれないほどあり、まるで装丁資材博物館だ。

斎藤昌三『書痴の散歩』(書物展望社、昭和7年)は、伏字本となり、売れずに見切本になったという。昌三随筆の題一冊目は、手痛い洗礼を受けた辛いデビューだったようだ。


「著者から聞いた刊行時の配本事情の一端を記した旧蔵者(不明)の鉛筆書きは興味をそそる。“傘の図柄を定めてから番号を割り当てたのは四、五冊の由、一番(徳富)蘇峰、二番禿(徹)氏とこの本だった”とある。なお、伏字箇所に著者の書き入れがあった。同書をお持ちの方の参考になればと思い紹介する。
二三二頁四行十七字目『○○○○(幸徳秋水)の蔵書印……』
同ページ七行三字目「大○(逆)文庫」……等
色あせたインキが、遥か遠い灰色時代の爪痕をしのばせ、一瞬物悲しく私の目を曇らせる。半面、先人の貴重な遺産を目前にして、コレクターしか味得出来ぬ喜悦を謳歌してしまう。」(城市郎『発禁本曼荼羅河出書房新社、1993年9月)


と、限定番号1番と2番の持ち主が判り、『書痴の散歩』に伏字があることを、手描きで書いてある情報から入手できた、古書のコレクターならではの喜びを書いている。


さらに、刊行当時に昌三との会話があったらしく、
「この立派な書容を誇るゲテ装の秀作も、献呈するのが多くて(そういえば、今でも書物展望社の一連の献呈本がよく出廻るのに気がつかれるであろう)思ったほど捌けず、揚句の果ては、資金不足のため、借金のかたに二束三文でもっていかれ、数年後には手付かずの同書が、どっと極美本で市場を賑わして、忽ち売り切れたとの事。儲けたのは、現在も隆盛を極める見切本の卸問屋(を名指しで)だけだったと、最後まで当時の苦い経験を引きずりながら生きた版元の少雨叟が、晩年私に零(こぼ)された無念の言葉が忘れられない。」(前掲『発禁本曼荼羅』)
と、昌三の無念が伝わってくる文章だ。

白樺の皮裝、横光利一『雅歌』(書物展望社、昭和7年12月)は、後に失敗作であることがに分った、という。


どの資材も初めて使うものばかりで、そのつど材料に応じ産地に出張して調査したり、糊を研究したりと、一朝一夕に完成したものではなさそうだ。私も、白樺の皮を購入してもっているが、どうやって加工していいのか分らない。齊藤の苦心談に耳を傾けて見よう。
「僕が白樺の皮を外装に試みた時は、未だ曙山の『植物叢書』を知らなかった際で一度ならず二度ならず不満に終って三度目に稍々成功したのも、一部の愛書家はご承知であろう。


この最初は横光利一の『雅歌』で、昭和七年の出版である。これは白樺を表は背の側に三分の一、裏面は背寄りに三分の二の廣さで、背貼りを兼ねた装法にしたが肌の斑紋の為に横目にしたので、今日から見れば折返しにふあんがあった。
第二はその翌年に學藝社から出した矢野峰人の大判詩集『しるゑつと』で、これは背を白のキャンバスにして、平を前とは逆の目の白樺で貼り、見返しを揉金にしたので豪華な觀はあつたが、どうも表面に艶のないのが缺點であつた。
然るに三度目は昭和十五年に、伊藤凍魚の俳句集を裝幀するに當り、著者が樺太の人であり、題名が『花樺』といふところから、どうしても白樺を使つて見たくなり、厳冬の頃の白樺を樺太から皮で直送して貰つて、再び横目で背貼りにして初めて快心の効果が擧げられたのだが、前の二書の時は原木で信州産をとり寄せて、皮剥ぎしたのは、春と秋であつたのを三度目のは冬だつたので、白樺そのものゝ粉のない艶の最も出る時期であつたことを知り、加工にも無理でなかったことを自ら覚つた。僕としては三度も相似たもので試作した例は他にないが、この三度とも製本者は異なつてゐた。」(齊藤昌三『書斎随歩』、書物展望社昭和19年


と、あり、『雅歌』は初めて白樺を使った失敗作であったようだ。

白樺装は難しい。そんな白樺装丁失敗談を書いた熊谷武至「装幀を變更した歌集」を紹介しよう。

書物展望社横光利一の『雅歌』を白樺の装幀で出版してから時日もたつた。その時、材料の白樺は初冬わざわざ信州へ人を派して伐り取らしたと傳へられ、岩本氏も雑誌『書物展望』の編集後記で『何しろ始めての試み故、製本所でも大骨折りで』と云われてゐる。事實世に出た白樺表紙は『雅歌』が最初である。


然し、これ以前、白樺を使用として失敗した例がある。
大正五年の春の雑誌『詩歌』を見ると、近刊の前田夕暮の歌集『深林』の廣告に、『白樺表紙四六判函入歌壇空前の新裝幀』と云ふ文字が見えてゐ、『詩歌』八月號の編輯後記で前田夕暮は“自分の歌集『深林』は愈々九月上旬に發行することになった。今まで随分長い間諸君の期待に背いてゐたので心苦しかったが、今度愈々上梓するといふ心持ちが旺盛になって來たので早速歌稿整理にとりかかった。數日内には印刷所に原稿の三分の二ほどは渡せることになってゐるし、表紙の白樺は今裏うちをしつつある”と語っている。


それが九月号の編輯後記には次の如くなつている。
“ここに自分の大きな失敗である事に就いて諸君にお詫びせなければならぬことがある。それは自分の歌集の白樺表紙のことである。今月愈々製本の準備の為めに製本屋に裏打をさせて試みにボールに貼つてみた處が、自分は一見してすつかり失望して仕舞った。裏打もせずボールに貼らぬ前と後との感じの相違甚だしさに呆然として仕舞つた。


それのみならず、十數ヶ月もそのまましまひ込んであつた為め、今度出してみたら色が半分程赤く変色して仕舞つた。それをボールに貼るとコチコチの板のやういになつて仕舞つたには絶望して仕舞つた。自分はそれから毎日頭を悩ました上でとうとう白樺の表紙は斷然取捨てて新しい他の装幀に變えざるをえなかつた。遂々吾々の新しい裝幀上の試みは一片の夢を遺して幻滅してしまった。……”


となつて、雑誌巻尾の廣告文は『著者装幀四六判函入歌壇空前の新装幀』と變つてゐる。……これを見ると、『雅歌』の白樺表紙の出現は喜ばなければならないことである。」

ミノムシ30,000匹も集めた小島烏水『書斎の岳人』(書物展望社、昭9年)


 蓑虫を背に使った小島烏水『書斎の岳人』(書物展望社昭和9年)、背の部分を見ていただくと、一辺が2cmくらいの◇模様を確認できるものと思います。実は、これがミノムシの蓑一匹分なのです。この背には、30匹ほど使われれており、限定980部なので、約3万匹のミノムシが使われたことになる。 
 どうやってミノムシをこんなにたくさん集めたのか、その執着心には脱帽するしかありません。一匹一匹蓑を開いて、裏打ちして、と、製造工程を考えると、コレまた気の遠くなるような作業である。巻頭の「小記」から制作にまつわる話を転載してみよう。


一、少雨荘のあるじ、斉藤昌三君、本書の装釘のために、苦吟せられ、蓑蟲の蓑を、二ヶ月もかゝって、丹念にあつめ縫い合わせて、表紙の背に着せられた。「蓑蟲の音を聞きに来よ草の庵」(芭蕉)の閑静は吾書斎にないが、侘びしい山家の風情は、装釘の方にある。表紙は、南洋に産する一樹木を、板に挽いて、使われたといふ。本書中の變人畫家、ガウガンの「ノア・ノア」時代の生活と、一味相通ずる氣がする。また見返へしに、森林生活の聖者、ソローの住んだウオルデン湖の銅版深度圖を、原本から冩して、圖案代わりの應用したのも、江湖粛散の氣に打たれる、私は氣に入った。」と、この装丁を絶賛している。書影は小島烏水『書斎の岳人』(書物展望社昭和9年)表紙。


 蓑虫の加工法が、2005年11月25日の読売新聞「彩時記」という覧に掲載されていたので切り抜いてきた。長崎県諫早市の大坪敬一さんによる札入れの作り方だが、加工法は同じだろう。 
◎ミノムシを加工する  その記事によると「ミノを切り開いて手洗いし、小枝や葉を除くと弾力のあるフェルト状の「まゆ」が現われる。アイロンをあて乾かせば1枚の生地になる。これを接着剤でつないだりミシンで縫ったりして札入れを作る。一つ作るのに70〜80個のミノがひつようだそうだ。」とある。他にも群馬県では、着物や帯にミノをあしらう「ミノムシ工芸」がある、という。

 
◎ミノムシは絶滅危惧種  最近ミノムシを見る事が無くなったと思っていたら、東京だからという事ではなく、ミノムシの代表格のオオミノガは、中国から侵入してきた「オオミノガヤドリバエ」というハエが寄生し、ミノムシを絶滅に追い込んでいるのだそうだ。 200年以降、宮崎県や徳島県では、オオミノガ絶滅危惧種としてレッドデーターブックに記載。ミノムシは、ミノガ科に属するガの幼虫で、口から吐く糸で小枝や葉を器用にあしらいながら、丈夫で独特の風情を持つミノを織り上げる。