水島 爾保布(みずしま におう、1884年12月8日 - 1958年12月30日)
東京府下谷区根岸に生まれる。明治33(1900)年、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)日本画科に入学したが途中で休業。39年に復学し寺崎広業に師事、明治41(1908)年に卒業。
明治45(1912)年、山本露葉、武林無想庵らと文芸誌「モザイク」を創刊、小説や戯曲を発表。同年小泉勝爾らと先鋭的な日本画研究グループ・行樹社を結成。
大正3(1928)年、大阪朝日新聞社会部長となった長谷川如是閑によって同社に招かれ、専属画科となり挿絵を描く。大正7(1918)年、白虹事件の責任を負って如是閑が退社し、爾保布も殉じ辞任。
大正8(1919)年、如是閑、大山郁男らが創刊した『我等』にコラムを執筆。同年、日本創作版画協会第一回展(於:東京三越)に参加。
大正9(1920)年、「阿修羅のおどり」で帝展に初入選、以後2回入選。
昭和12(19379年、中越実業新報の招きで長岡市に移り、亡くなるまで新潟県内で暮らした。
画家としての代表作に「東海道五十三次」がある。著書に「愚談」「痴語」「新東京繁昌記」「見物左右衛門」など。