鈴木淳(1892[明治25]年〜1958[昭和33]年)
佐賀県舟津生。1917(大正6)年東京美術学校卒。美校在学中の1914(大正3)年に文展に初入選し、帝展・新文展・日展に継続して出品。1917(大正6)年の文展入選作は宮内省買い上げとなる。入選10回を重ねた後の新文展では招待者として「港」を出品し、以後無鑑査となって毎回出品。
……通称「じゅん」と呼ばれたようだが、『赤い鳥』1巻6号の口絵「魔法がとけた」に「すずきあつし」、2巻1号の口絵「青い海」に「Suzuki atsusi」、7巻2号の表紙絵「兎の時計」と口絵「罰あたり」には「阿つし」と署名されており、また第10回帝展出品作品以降「淳」に「あつし」とルビがふられていることなどから、正しくは「あつし」である。(『赤い鳥事典』柏書房、2018年)
「淳は〈あつし〉と読みますが、成人してからは、鈴木三重吉先生はじめお友達の方がたも《じゅんさん》の愛称で呼ばれました。」(「鈴木淳──未亡人・鈴木登美子氏の語る」[上笙一郎編著『日本児童出版美術史』太平出版社、1974年])より。
◉鈴木じゅんと『赤い鳥』との関係
鈴木三重吉の小説に陶酔し、美校在学中に「三重吉全作品集」の会員になっていたところ、一級先輩の清水良雄宅で三重吉に紹介され『赤い鳥』に関わるようになる。1巻5号(1918年11月)の「さし絵・飾り絵」がデビュー。このときは清水との分担であった。この仕事で三重吉や清水の信頼を得、次の1巻6号では、表紙絵・口絵・さし絵・飾り絵の全てを任される。清水が病弱なこともあって、その後、表紙絵・口絵・挿絵・飾り絵の多くが、鈴木に委ねられた。兵役(*1)で関われなかった時期に美校の後輩・深沢省三が加わり、以後深沢とともに清水を支えて「赤い鳥」の主要な描き手を務めた。(『赤い鳥事典』柏書房、2018年)
(*1)「大正9(1920)年1月号から10年6月号までは、主人(*鈴木淳)は、一年志願兵として近衛歩兵第一聯隊に入営いたしましたから、1つも描いておりません。……一年半後、陸軍少尉となって除隊、画家の世界にもどりましたのでございます。」(「鈴木淳──未亡人・鈴木登美子氏の語る」[上笙一郎編著『日本児童出版美術史』太平出版社、1974年)より。
◉鈴木淳の『赤い鳥』デビュー作品
前記のように鈴木淳は、「1巻5号(1918年11月)の《さし絵・飾り絵》がデビュー」作であるが、1巻5号では清水良雄と鈴木淳が二人で手分けして挿絵を描いており、二人ともいずれの挿絵にもサインを残しておらず、どの絵が鈴木のデビュー作であるのか判断するのが難しい。そこで、ここでは1巻5号に掲載されている主な挿絵を22点ほどを「鈴木淳or清水良雄:挿絵」としてアップすることにした。
◉第1巻第6号では、鈴木淳が「表紙絵・口絵・さし絵・飾り絵の全てを任され」たので、25点を選んで掲載します。
◉鈴木淳が描いた『赤い鳥』の表紙絵16点