青面金剛庚申塔の囲いもブロック塀をやめた!

【しん散歩(8)…西東京市向台の青面金剛庚申塔の囲いもブロック塀をやめた!】
・写真上=サイクリングロード(向台)脇の青面金剛庚申塔馬頭観音、昭和51年頃に撮影。
・写真下=同じ場所を2018.7に撮影。
 



写真右の青面金剛庚申塔は、元禄14年(1810)に造立されたもので、もと石川島播磨重工工場の正面にありましたが、昭和44年頃にこの場所に移動されました。
 写真左側の馬頭観世音石仏(天保4年〈1833〉造立)も石川島播磨重工工場前に建てられていたもので、江戸道の路傍にありました。かつて江戸道に荷駄をつけたたくさんの馬が往来して田無宿が繁盛していた時代のものです。



 西東京市には青面金剛庚申塔が21基(旧田無市に12基、旧保谷市に9基)確認されています。案外知らないとおもっている人が多いようですが、言われてみれば、あれか、と思い浮かべることができるのではないかと思います。


保谷市青面金剛庚申塔を探してみようと資料を漁ってみたが、これが案外難しい。使用した資料は昭和46年のもので住所が西東京市になる前の保谷市の住所であることや、おおよその見当をつけてその場所に行っても、道路の拡張などでどこかに移動してしまっているからだ。『保谷の石仏と石塔一』の表を見ると、青梅街道沿いはわかるが、表に記載されているような企業はない。それでも11基のうちの9基までは見つけることができた。


滝島 俊さんよりFBに次のようなコメントがありました。 「上柳沢の青面金剛庚申塔は青梅街道の拡幅(ガスタンク辺りは南側;下り路線分が拡幅された)により、元あった場所から今の場所に移動されてますね。(昭和45年2月) 今の下り路線にあった住宅やお店はこぞって退去・転居になってますね。」と。


それでは、現在、上柳沢橋の北東部にあるのが、青梅街道沿いの河村工業脇にあった青面金剛庚申塔だったんですね。表の2にあるのは、撮影した時は、鉄格子のような窓から撮影したので気がつきませんでしたが、脇に小さな青面金剛庚申塔があるみたいですね。


【盗まれてしまったのか?】先ほどアップした保谷市の「青面金剛塔一覧」に頃歳されている「2」の青面金剛像を撮影しようと行ってみたら、なんと無い! 盗まれてしまったのか? 祠の裏にちょうど青面金剛像の背丈くらいの穴が空いていた(写真左下)。これって事件か?


【これが無くなってしまった青面金剛庚申塔】無くなってしまったのは写真左下の小さなものです。写真は昭和45年にこの場所に移築されてきた時に撮影したものです。


とりあえず話をもとに戻します。旧保谷市内の青面金剛庚申像で一番知られているのは、榎通り(深大寺街道)と如意輪寺に向かう道に挟まれた、泉町2丁目の青面金剛庚申像であろう。当所は江戸時代の高札場があったようで、上保谷村の中心だったようです。造立年や作者がわかっている例は少ないようで、「石工は八丁堀松屋町いづみや三郎左衛門作(正徳4年)。一臂に旗らしきものを持ち、合唱と合わせて三臂、しかも丸彫り。周辺地域に類例を見ない青面金剛像である。いずみやの三郎左衛門は若年ゆえ絵図にならってノミをふるったが、稚拙になったものの、気迫は充分に出た。……そんなふうに想像したくなる像容である。」(『保谷の石像と石仏一』)、と記されている。2鶏、三猿を刻んだ大石の上に一鬼を踏んまえた合掌六手の青面金剛、高さ80cmの石の彫刻でありますが、右手2本、左手1本が欠落しているのが残念です。腕のあたりに彩色の跡が見えるようですが、もとは、色が付いていたのかもしれませんね。