近くにあった説明板には「西東京市指定文化財三十一号 石製尾張藩鷹場標杭 江戸時代の多摩・新座・入間郡、百八十五か村に、尾張藩徳川家の鷹場が設けられ、上保谷村はその東南の隅に位置していました。亨保二年(一七一七)以後、鷹場を囲んで境界線に八十三本の石杭が立てられ、そのうち上保谷村の村境には、九本の御定杭ありました。幕末には廃止され多くの杭が破棄されましたが、上保谷村では五本が保存されました。正面の銘文と記録により、小字「柳沢」・「下野谷」・「坂上」に立っていたものであることがわかります。このようなまとまった保存は、新座郡溝沼村(埼玉県志木市)の四本と上保谷村のみです。尾張藩の鷹場は、武蔵野の村むらの生産と生活に大きく影響し、農民にさまざまな負担が課せられました。この御定杭は、鷹場の歴史を表す遺物として貴重なものです。平成四年十二月 西東京市教育委員会」と書かれています。
石製尾張藩鷹場標杭5基の移動について、所有者の野口氏から連絡があり、撮影してきました。元の位置から数百メートル離れた、野口家が経営する保谷ゴルフセンターの東側に無事に移動されていました。
【西東京市にある「高塚」の地名の由来は「御鷹場塚」なのだろうか?】
西東京市市内には、9基の御定杭があったが、具体的にどこにあったのかはわからない。御定杭があった場所を探す手がかりがないものかと考えていましたら、ネット上に次のような記事を見つけた。
「三鷹市上連雀と境南町との境にあたる、新武蔵境通りと連雀通りが交差する「塚」交差点周辺にはかつて2基の塚が存在したという伝承があり、これは一里塚であったといわれています。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、1基が江戸往来の接するところに、もう1基が南の林の中にあり、ともに高さは三尺余りの小さな塚であったことが記されています。
ところがその後、この地域が、多摩地域に存在した尾張藩(尾州)の御鷹場の境界となっていたことがわかってきました。
大鷲神社の地点に『井口新田 字二ツ塚 5番杭』が、また「塚」交差点付近には『井口新田 字二ツ塚 6番杭』という鷹場の標石が建てられ、いずれも目印に榎の樹が植えられていたそうです。
鷹場の標石の場所には、目印として、規模にして2間四方、高さ6〜7尺(2m程度)ほどの塚が築かれていたといわれています。
画像は、三鷹市井口1丁目所在の大鷲神社を南東から見たところです。
神社の敷地が周囲と比べて一段高くなっています。どうやらここは一里塚の跡地ではなく、尾張藩お鷹場境界杭が設置された「御鷹場塚」の跡地である可能性が考えられるようです。
東京都内においては、御鷹場塚は残存しないと思われますので、この大鷲神社の高まりが御鷹場塚の痕跡であれば、かなり貴重な存在かもしれません。。。」(「古墳なう」塚その2)より。
とあり、鷹場境界杭は御鷹場塚の上に建てられていたようで、地名に「塚」と付いている場所は御鷹場塚であった可能性が高いという。西東京市にも「高塚」という地名があり、地名の由来は「鷹塚」であった可能性がある。
地図上では「高塚」は、柳沢、坂上、下野谷と並べた延長上に位置しているので、ますます「高塚」が御鷹場塚である可能性は高くなってきた。現在は何もそれらしい跡は残されていないが、もう1箇所くらい場所の特定ができれば、「高塚」は「御鷹場塚」であることが、証明できそうである。