【しん散歩(197)…石製尾張藩鷹場標杭(西東京市文化財市指定第32号)が消えた!】

【しん散歩(197)…石製尾張藩鷹場標杭(文化財市指定第32号)が消えた!】 
写真上=東京都西東京市保谷町五丁目の民家の庭にある、西東京市を含むかつての武蔵野一帯が鷹場であったことをしめす石製尾張藩鷹場標杭5基(文化財市指定第32号)を2015年2月15日に撮影。石標には「従是南北尾張殿鷹場」と刻まれています。
写真下=白黒写真と同じと思われる保谷町五丁目を2022年2月18日に撮影しましたが、標杭を保存していた民家は更地になり、石製尾張藩鷹場標杭5基は、どこかへ消えてしまいました。

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石製尾張藩鷹場標杭(文化財市指定第32号)(写真上)、と更地になって石製尾張藩鷹場標杭(写真下)。

 

近くにあった説明板には「西東京市指定文化財三十一号 石製尾張藩鷹場標杭  江戸時代の多摩・新座・入間郡、百八十五か村に、尾張藩徳川家の鷹場が設けられ、上保谷村はその東南の隅に位置していました。亨保二年(一七一七)以後、鷹場を囲んで境界線に八十三本の石杭が立てられ、そのうち上保谷村の村境には、九本の御定杭ありました。幕末には廃止され多くの杭が破棄されましたが、上保谷村では五本が保存されました。正面の銘文と記録により、小字「柳沢」・「下野谷」・「坂上」に立っていたものであることがわかります。このようなまとまった保存は、新座郡溝沼村(埼玉県志木市)の四本と上保谷村のみです。尾張藩の鷹場は、武蔵野の村むらの生産と生活に大きく影響し、農民にさまざまな負担が課せられました。この御定杭は、鷹場の歴史を表す遺物として貴重なものです。平成四年十二月 西東京市教育委員会」と書かれています。

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石製尾張藩鷹場標杭(文化財市指定第32号)の説明板

 

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保谷村の石製尾張藩鷹場標杭75〜83の位置図。「宝暦年間の尾張藩鷹場の図」(『多摩の歩み』第50号4)より。

 

そもそも、「宝暦年間の尾張藩鷹場の図」に記載されている西東京市域にあったとされる9本の御定杭は、現在のどこにあったのだろうか? 幕末に御鷹場が廃止され、御定杭も廃棄され、保存されているほとんどが元の位置から移動されているという。さらに、かつては林や森の中にあったと思われるので、正確な住所などが残されているわけでもなく、元の位置を調べるのは難しい。「尾州様御鷹場御定杭場所書上帳」(宝暦3年酉8月)には「75.上保谷村1南北…石神井道右側北方ニ立 但関道角」「76.上保谷村2南北…御境道添淵ノ上右側西方ニ建」「77.上保谷村3南北…御境道添右側淵南へ下り口谷ノ崖ニ立」「78.上保谷村4南北…青梅街道添左側北方ニ建」「79.上保谷村5.西北…関村境関前新田裏江戸へ之廻り道左側北方ニ立」「80.上保谷村6東西北…神田堀端江戸道添右側北方松山縁ニ立」「81.上保谷村7東西北…神田堀端深大寺道道橋詰御境道右側北方に建」「82.上保谷村8東西北…神田堀河岸御境道通り右側北方畑畦ニ立」「83.上保谷村9東西北…神田堀分水樋口上河岸通御境道右側北方ニ立」と記載されているが、にわかには、どの辺りなのかわわかりません。御大まかには、富士街道の高塚、東伏見アイスアリーナの東側あたり下野谷遺跡のあたり、青梅街道坂上千川上水深大寺道の交差するあたり、千川上水取水口あたり、玉川上水北側新町6丁目西のはずれ、ではないかと思っていますが、もう少し具体的に調べてみます。
 

 

 

石製尾張藩鷹場標杭5基の移動について、所有者の野口氏から連絡があり、撮影してきました。元の位置から数百メートル離れた、野口家が経営する保谷ゴルフセンターの東側に無事に移動されていました。

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新しい移転先にきちんと並べられた石製尾張藩鷹場標杭

 【西東京市にある「高塚」の地名の由来は「御鷹場塚」なのだろうか?】

西東京市市内には、9基の御定杭があったが、具体的にどこにあったのかはわからない。御定杭があった場所を探す手がかりがないものかと考えていましたら、ネット上に次のような記事を見つけた。

三鷹市上連雀と境南町との境にあたる、新武蔵境通りと連雀通りが交差する「塚」交差点周辺にはかつて2基の塚が存在したという伝承があり、これは一里塚であったといわれています。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、1基が江戸往来の接するところに、もう1基が南の林の中にあり、ともに高さは三尺余りの小さな塚であったことが記されています。
 ところがその後、この地域が、多摩地域に存在した尾張藩尾州)の御鷹場の境界となっていたことがわかってきました。
 大鷲神社の地点に『井口新田 字二ツ塚 5番杭』が、また「塚」交差点付近には『井口新田 字二ツ塚 6番杭』という鷹場の標石が建てられ、いずれも目印に榎の樹が植えられていたそうです。
 鷹場の標石の場所には、目印として、規模にして2間四方、高さ6〜7尺(2m程度)ほどの塚が築かれていたといわれています。


大鷲神社と「塚」交差点2

 画像は、三鷹市井口1丁目所在の大鷲神社を南東から見たところです。
 神社の敷地が周囲と比べて一段高くなっています。どうやらここは一里塚の跡地ではなく、尾張藩お鷹場境界杭が設置された「御鷹場塚」の跡地である可能性が考えられるようです。
 東京都内においては、御鷹場塚は残存しないと思われますので、この大鷲神社の高まりが御鷹場塚の痕跡であれば、かなり貴重な存在かもしれません。。。」(「古墳なう」塚その2)より。

 とあり、鷹場境界杭は御鷹場塚の上に建てられていたようで、地名に「塚」と付いている場所は御鷹場塚であった可能性が高いという。西東京市にも「高塚」という地名があり、地名の由来は「鷹塚」であった可能性がある。

 地図上では「高塚」は、柳沢、坂上、下野谷と並べた延長上に位置しているので、ますます「高塚」が御鷹場塚である可能性は高くなってきた。現在は何もそれらしい跡は残されていないが、もう1箇所くらい場所の特定ができれば、「高塚」は「御鷹場塚」であることが、証明できそうである。