「田無文化」という映画館があった!

shinju-oonuki2018-08-04

【しん散歩(9)…「田無文化」という映画館があった!】
・写真上=田無文化への路地の入り口、隣は「大和屋金物店」。昭和35年(1960)に撮影。(『田無市史』第4巻民俗編、平成6年)
・写真下=青梅街道沿いの同じ場所を2018.7に撮影。


 「かつて田無には映画館が3館もあり、近郊の映画ファンが集まってくるハイカラな街だった。……『田無文化』は昭和30年開館。田無の老舗酒屋『箱根屋』の子息が青梅街道にあった旧あさひ銀行(現在の『めん勝』の向かい)の路地裏に建てた。市川昆監督の記録映画「東京オリンピック」を当時の小学生は学校の授業の一環として『田無文化』で鑑賞したという。映画産業の斜陽化に伴い、最終的にはポルノ映画館となったが閉館。」(「熱血7号」2009年07月)。
 現在はこの駐車場の看板の手前の路地を入ったところにあるラ・ベルドゥーレ田無というマンションに入居する「たなし中村眼科クリニック」があるあたりが、「田無文化」という映画館ががあったところのようです。


昭和31年に発行された「田無映画同好会会員割引券」。東映、文化、銀映が合同で割引券を発行していたんですね。映画のタイトルが、どれも昭和30年代していていいですね。



一番右の京マチ子山本富士子主演、監督村公三郎「夜の蝶」1957年(昭和32年)、大映映画。銀座で生きる女の戦いの映画のようですね。


右から二番目の「白い夏」は、出演:青山恭二、中原早苗、監督:斎藤武市「白い夏」日活、昭和32年(1957)。


昭和35年頃に田無で撮影された写真(『田無市史』第4巻民俗編、平成6年)。映画ポスターを眺めてみると、明治天皇嵐寛寿郎、小森白:監督「明治大帝と乃木将軍」(新東宝)。 市川雷蔵:主演、田中徳三:監督「浮かれ三度笠」(大映)。 主演:森繁久彌ほか、佐伯幸三:監督「白浪五人男」(東宝)。 川口浩:主演、島耕二:監督「好き好き好き」(大映)などが放映されていたようですね。



田無に映画館が3館あった頃に発行されていた「田無映画外ニュース」NO.57 (昭和38年)から、田無文化のページだけを転載します。下に記載されている「次週予告豪華番組」を見ると銀映と東映は主に邦画を放映し、田無文化は洋画が多かったようですね。手書きの文字が多く、活字の部分は印刷物を切り抜いて版下にしたようで、経費をかけないように涙ぐましい努力がうかがわれて、どこか微笑ましいです。

右上の「太陽のはらわた」は、クロード・ベルナール・オーベール監督「太陽のはらわた」(1963年、ニュー東宝)。


西武新宿線田無駅脇にあった映画館3館の映画ポスター、昭和35年撮影(『田無市史』第4巻民俗編、平成6年)。写真右の田無文化で放映していたのは、主演:アラン・ドロン、監督:ルネ・クレマン太陽がいっぱい」(1960年のフランスと イタリアの合作映画)と、主演・監督:ピエトロ・ジェルミ「刑事」(1959年公開 )の2本立てだったことがわかります。写真中は、大川橋蔵:主演、マキノ雅弘:監督「江戸っ子肌」(東映、1961年)。写真左は、主演:和田浩治、監督:山崎徳次郎「大暴れマドロス野郎」(日活、1961年)。風景写真の背景に写っていた映画看板ですので、あまりよく見えませんが、なんとか話のネタにはなりそうです。



これは一度「しん散歩」の「塚屋商店交差点の緑のおばさん」(昭和37年撮影)でアップされたものの部分アップで再登場です。一番右のポズターが「田無文化」だと思われますが、ついに「ストリップショー」の看板になってしまいました。「最終的にはポルノ映画館となったが閉館(※昭和41年)(「熱血7号」2009年07月)」と、最初の文面にありましたが、昭和37年にはすでにストリップもやっていたようですね。真ん中のポスターは、「愛染かつら」(1962年公開、松竹製作)監督:中村登、主演:岡田茉莉子吉田輝雄、ではないかと思います。「愛染かつら」は1937年から1938年まで雑誌『婦人倶楽部』に連載された川口松太郎の小説を原作にして、何度も映画化されました。


「田無映画街ニュース」のバックナンバーをみたいと思い探しましたが、なかなか見つからず、意外に貴重な資料なのかもしれませんので、「田無映画外ニュース」NO,57( 昭和38年)A4二つ折り4Pの中面もアップします。このデータもどこから入手したのか覚えておりません。広告を出している店がまだあれば、そこでバックナンバー持っていないかな?


ちなみに、表面はこんな感じ。


最初にアップした映画館入り口の看板が、なんという映画なのか特定しようとした。右側の映画は「三悪人」と読める。これは監督:ジョン・フォード三悪人』(昭和元年〈1926〉)にまちがいないだろう。とおもったが……。


もうひとつ「三悪人」を含むタイトルがあった。主演:三船敏郎、監督:黒澤明隠し砦の三悪人」(昭和33年〈1958〉、東宝スコープ)だ。最初の写真の撮影年が昭和35年なので、どちらも上映する可能性はある。


雪姫役の上原美佐のこの姿は時代劇ではイェローカードクラスの色っぽさですね。水戸黄門由美かおるの入浴シーンなみですね。


2本だけかと思っていたら、なんと3本目がでてきました。山本富士子市川雷蔵勝新太郎:出演、井上梅次:監督、「女と三悪人」大映京都、昭和37年(1962)年だ。ただこれは、昭和35年以降なので残念ながら、上映はありえないようです。


最初の写真の左側の看板には「草」という文字が確認できます。が、私が知っているのは、「浮草」くらいしかありません。ググってみると、京マチ子中村鴈治郎:出演、小津安二郎:監督『浮草』(昭和34年〈1959〉、大映)がヒットしました。これは、白黒写真の撮影年より、1年前に封切られたようなので、この映画に間違いなさそうですね。


つまり「浮草」と「隠し砦の三悪人」が上映されていたのではないでしょうか?どちらもほぼ封切り日に近いので、遠くから観にくる人も多かったのではないかと思います。


私も授業で学校から「東京オリンピック」の映画を観に行きました。それはこの映画だったように記憶しています。


他にもこんなオリンピック映画もあったようです。


田無文化への路地の向かい側にいまも営業している「百年の伝統が生んだ味 割烹坂平」がある。田無文化があった頃は、映画を見て、坂平でうなぎを食べながらビールを飲んで暑気払いをした人もいたんだろうなぁ〜…! 帰りには隣の廣田豆腐店で豆腐を購入し、家に帰って、冷奴でもう一杯、な〜んてね…。


坂平の隣にあった「廣田豆腐店」。


広田豆腐店から西へ4軒ほど隣には、野崎屋酒店がある(2018.2撮影)。「酒造の本場新潟で生まれ、酒造りを修行した野崎嘉一郎さんは柳窪東久留米市)の酒蔵で働き、明治末期に田無へ店を出した。……これが現在の店(本町2-4-4)である。」(『田無のむかし話その3』より)。


田無駅前のリビンができるまではこの野崎屋酒店の脇が、メインストリートでもある「駅前通り商店街」の北側の出入り口でした、1990(平成2)年撮影(『田無市史』第4巻民俗編、平成6年)。


現在の駅前通商店街(2018年2月撮影)。わずか50mほどがむかしの面影を残しています。ちょっと寂しげですが、むかしは賑やかだったんだよな、なんて思い起こさせてくれる懐かしい路地で、田無に行ったらなるだけここを通るようにしています。


野崎屋酒店の脇の路地を南に進むとすぐに、田無銀映という映画館がありました。


田無銀映は、北から南の駅方面に向かって進むとちょうどこんな感じで路地の右側に見えたはずです。昭和35年頃に撮影。(『写真で見るわがまち西東京』郷土出版社、2015年)


振り返るように、駅の方から北に向かって吟詠の看板を眺めてみると、なんと「007ゴールド・フィンガー」。写真は田無銀映(昭和41年頃撮影)。(『写真で見るわがまち西東京』郷土出版社、2015年)


市川崑監督の映画・東京オリンピック(1965年)と、同じ年の公開だったんですね。私が007を見たのは田舎だったのでもう少し後だったかもしれません。18歳で単独上京した頃だったかもしれません。
もう一本は、監督スタンリー・クレイマー「おかしなおかしな世界」(1963)。この2本立てだとしたらかなりの豪華版ですね。今上映していたら、絶対に行っちゃいます。


そのまま田無駅の方に進むと、通りの左側、田無銀映のはす向かいには田無東映がありました。写真は昭和41年に撮影。(『写真で見るわがまち西東京』郷土出版社、2015年)


看板の映画「太陽に突っ走れ」(昭和41年〈1966〉、東映)は、作曲家遠藤実の自伝「太陽も笑っている」を、「カミカゼ野郎 真昼の決斗」の池田雄一が脚色、「地獄の野良犬」の鷹森立一が監督した歌謡ドラマ。出演:千葉真一、十朱幸代 他。


もう1本は「おはなはん第二部」(1966年、松竹)、NHKテレビで放映中の小野田勇、林謙一の原作を、「おはなはん」の山田洋次や、元持栄美、桜井義久、吉田剛が脚色し、前作同様野村芳太郎が監督した続編。


三本立てだったのか。三本目は「汐風の中のふたり」(1966年、松竹)、「雨の中の二人」でコンビの桜井秀雄と熊谷勲、「ウナ・セラ・ディ・東京」の山根優一郎が共同でシナリオを執筆、桜井秀雄が監督した青春もの。出演:竹脇無我 、田代美代子。



最後に紹介するのは、田無東映の前身、田無で最初の映画館「田無館」(昭和3年開館)、昭和初期に撮影。「田無に最初にできた映画館は『田無館』。北口再開発以前、今のアスタ北端にあった。佐々病院の初代佐々正達氏が有志から出資を募って建設、昭和3年に開館、その後酒井平太郎氏が買い取って「田無東映」となる。緞帳が上下する劇場で、戦前は休日や盆暮れ正月にだけ上映していたが戦後になって常時上映するようになったという。閉館は昭和41年8月。その後、イトーヨーカ堂が建設された。」(「田無にあったニューシネマパラダイス」[『熱血!田無新聞』7号」より)。


「日本の映画産業が最も潤ったのは昭和三十三年。遠い昔だ。キネマ旬報の資料によれば、その年の興行収入成績ベスト5は、
1.忠臣蔵大映
2.陽のあたる坂道(日活)
3.紅のつばさ(日活)
4.忠臣蔵東宝
5.隠し砦の三悪人、となっている。」 (「田無にあったニューシネマパラダイス」[『熱血!田無新聞』7号」より)。写真は『忠臣蔵大映創立18年を記念して製作され]、長谷川一夫市川雷蔵勝新太郎京マチ子山本富士子若尾文子中村玉緒ら当時の大映の俳優が総出演したオールスターキャストの作品であった。監督は渡辺邦男吉良上野介には、民藝の名優滝沢修を起用。