かつて保谷に寺子屋があった!

【しん散歩(54)……保谷寺子屋があった!】
写真左=宝晃院の寺子屋師匠逆修墓塔(西東京市住吉町、2018.7撮影)。
写真右=如意輪寺の寺子屋師匠墓塔(西東京市泉町、2018.7撮影)。
 旧田無市には、かつて総持寺や閻魔堂などに寺子屋があったことが知られているが、旧保谷市には寺子屋に関する資料が少なく、あまり教育に熱心ではなかったのではないかと言われていた。そん中、寺子屋が存在したことを示すのではないかといわれる石塔が2基あるというので探してみた。




 住吉町・宝晃院の墓地中に、江戸末期に建てられたと思われる「法印宥善」という社僧の五輪塔型「寺子屋師匠墓塔」があった。
基壇には「筆子連盟」として上保谷全域から46名、女9名合計55名の筆子(手習いの弟子、読み書きを習う子ども)の名前が刻印されている。
 地輪( 五輪塔の最下層)正面には「法印宥善」と、左側面には「仮名恵麟 自建置之」と刻印されており、この塔は生前に塔を建てる逆修塔(生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をすること。そのために建てる石塔婆)である。
 「筆子の個々を見ると住吉町中村貞一氏の祖父『上宿中邑安五郎』があり、他の筆子直系の孫も何人かが生存されているため、これに対照すると恵麟坊法印宥善の逆修塔は明治維新をすぐそこにひかえた幕末に建てられたものと推定される。維新政府が成立すると学制改革があって小学校が置かれるわけだが、宥善の寺子屋はこれによって廃校とされたのであろう。のみならず、宝晃院は神社の別当寺から分離・廃止される運命にあった。彼は生前に建てた菩提に入寂(寂滅にはいること。特に、 僧侶が死ぬこと)の紀年を刻さぬうち、本山の指令によって他の末寺に普山したものか、あるいは環俗したものと想像される。なおこの宥善は明治以前まで社僧であり、筆小屋の師匠を兼ねたのは、こうした僧侶や神主が、近世にあっては村落の知的な指導的階層であったためである。」(『保谷市史別冊似保谷の石仏と石塔二』より)。



 写真右のもう一つの寺子屋の存在を示す墓塔である、泉町・如意輪寺にある「寺子屋師匠墓塔」は、天保9年81838)年ころに、弟子たちによって造立された寺子屋師匠の墓石。「現名名古屋瑞範氏の墓地に立つ。妻女と並んで戒名が彫られるが、俗名がない。『施主名古屋富士松」とあって、富士松は師匠の長男であったろうから、師匠の姓は名古屋と考えられる。上部基段に『筆子中』とあり、四面にわたって上下保谷村、上保谷新田、落合村など男子の弟子66人の姓名が彫られている。」(『保谷市史別冊似保谷の石仏と石塔二』より)。と、二つの石塔が、かつて保谷寺子屋があったことを示しているが、これ以上の詳細を示す資料が少なく、史実として認めるには今ひとつ説得力に欠けているようです。


え〜っ、寺子屋がこの2つ以外にもう一つあったって本当? 「寺子屋は江戸中期以後、庶民に読み書き算盤を教える教育機関であった。村役人をはじめ武士・僧侶・神主・里山伏・医者などが師匠となり、ほぼ数十人を単位にして開設され、最盛期には全国で約一万におよんだといい、この周辺では化政期以後幕末に多く、宝晃院・下保谷の寮墓地内にあった大像坊が寺子屋をひらいていた」(『保谷の石仏と石塔二』)。って書かれているが、これって、宝晃院にある「寺子屋師匠逆襲墓塔」の話とは別の寺子屋なのだろうか? 


寮墓地とは西東京市栄町1丁目にある共同墓地のことです。「墓地内にもと大象坊があり、験者(法華行者)あがりが昭和初期まで住していた」(『保谷強度資料』昭和10年)。この大象坊は村人から通称「寮」と呼ばれており、寮といえばここの墓地を指していたので、この墓地は寮墓地と呼ばれている。


これが現在の寮墓地ですが、この墓地の一角に大象坊があったのだろうか。


これは明治13年の地図です。赤丸のところは保谷厚生病院の西側の墓地です。三角地帯のところが寮墓地ですが、黒い四角の建物の記号がありますが、これが寮と呼ばれていた大象坊で、寺子屋だった建物ではないかと思われます。