ワーグマンがオールコック『大君の都』に描いた挿絵は何枚?

【ワーグマンがオールコック著『大君の都』に描いた挿絵は何枚?】
  幕末期に記者として来日し、「ポンチ絵」のもととなった日本最初の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊したことで知られるチャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman)。その最初の仕事となったオールコック著『大君の都』へのワーグマンが描いた挿絵はどれなのか? 何冊かの本を調べてみたが144枚全てにサインがないので判断が難しい。

1861年4月(文久3.3)来日の大一歩を長崎におろしたワーグマンは、英国の駐日総領事、ラザフォード・オールコックらとともに陸路江戸へ向かった。この旅はワーグマンにとって快適であったらしく、行く先々で珍しい日本の風物をスケッチしている。オールコックの著作『大君の都』(山口光朔訳・岩波文庫)には、この時の旅の模様の記述が見られるが、その中にはワーグマンの手になる144枚の挿絵が収録されている。」(重富昭夫『ワーグマンとその周辺』ホルプ出版1987年)とあり、「ワーグマンの手になる144枚の挿絵が収録されている。」と記されていた。

ワーグマンの144枚の挿絵を見ようと『ワーグマン日本素描集』(岩波文庫、1987年7月)を見るとそこには、「『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』の特派員として来日したワーグマンの最初の大きな仕事は、オールコック著『大君の都』(上下二巻)に挿入する12葉の石版画の制作であった。村の娘・茶屋の娘・御高祖頭巾の女・医者などの肖像は、ワーグマンの日本人への関心や深い愛着を示す絵として興味深い。大村や小田で外国人一行を見に来た群衆図も、日本人の好奇心の強さを示してくれる。」とあり、ここではワーグマンの挿絵は12葉であるように記されている。

それでは、オールコックの著作、山口光朔訳『大君の都』全3巻(岩波文庫、1962年)を見てみよう。
「…若干補足しておきたいのは、かれ(※オールコック)が多少画才を有していたということである。このことは『ロンドン画報』の特派画家として活躍したチャールズ・ワーグマン(1834ころ〜1891)の筆になる絵とならんで、かれの写生画が本書にふんだんにとりいられていることでもわかる。本書には地図2枚とさし絵144枚が収録いるがその大部分(とくに前半)は、オールコックじしんが写生ないし日本の木版画を模写したものである。」とあり、ここでは、どの絵をワーグマンが描いたのかを明らかにしていない。
 ページをめくっていくと1ページ大のさし絵が14葉挿入されており、それ以外のさし絵は、誌面の1/2〜1/4程度の大きさに掲載されているので、大きい方の14葉の絵がワーグマンが描いた石版画ではないかと推察する。
 下記の14葉のさし絵が、ワーグマンが描いたものと思われる。

ワーグマン:画「村の美人」(オールコック『大君の都』1859-1862年



ワーグマン:画「茶屋の給仕女」(オールコック『大君の都』1859-1862年



ワーグマン:画「江戸の女の冬姿」(オールコック『大君の都』1859-1862年



ワーグマン:画「日本の医者」(オールコック『大君の都』1859-1862年



ワーグマン:画「大村の旅館から」(オールコック『大君の都』1859-1862年



ワーグマン:画「小田」(オールコック『大君の都』1859-1862年



ワーグマン:画「嬉野の硫黄温泉」(オールコック『大君の都』1859-1862年



ワーグマン:画「呉服屋風景」(オールコック『大君の都』1859-1862年



ワーグマン:画「小田原への川越え」(オールコック『大君の都』1859-1862年



ワーグマン:画「大阪の景色」(オールコック『大君の都』1859-1862年



ワーグマン:画「長崎近郊の旅館」(オールコック『大君の都』1859-1862年



ワーグマン:画「婦人の顔そり」(オールコック『大君の都』1859-1862年



ワーグマン:画「富士登山」(オールコック『大君の都』1859-1862年



ワーグマン:画「寺院境内の鐘楼」(オールコック『大君の都』1859-1862年