瞽女たちが造った駒止橋…其の壱

西東京市都市伝説探検隊▶瞽女たちが造った駒止橋…其の壱】
西東京市住吉町・寶晃院の門の脇に「駒止」と彫られた左右50cmほどの石造の銘板がひっそりと佇んでいる。




かつて横山道と言われたフラワー通りと、今は暗渠になってしまっている新川北支流とが交差するところに駒止橋という名の石橋があったことを明かす貴重な人工遺物である。

横断歩道の下を新川北支流が流れていた。駒止橋はこの横断歩道を跨ぐように架けられていた。



どのような橋があったのかは今となってはわからないが、もう一つこの橋に関する石碑が遺されている。
 
 すぐ隣の東禅寺に保管されていると言われている石橋供養塔である。東禅寺を訪ねてみたが、「今はしかるべきところに保管しているので、見せることは出来ない」と門前払いを喰らってしまい、実物を見ることは出来なかった。西東京市文化財に指定されているが、私物なのだろうか? 

 片桐譲『石橋供養塔と瞽女』に掲載されている写真には、「1759(宝暦9)年、上保谷村(現西東京市内)上宿の駒止橋にたてられた石橋供養塔。右が塔正面、左が96ヶ所の地名を彫った右側面とその銘文。銘文左の末尾に岩崎瞽女とある。」と解説がある。



 さらに石碑の側面にかかれた文面の解読が図示されている。


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宝暦9(1759)年の上保谷村(現西東京市内)に岩崎瞽女を頭とした一座が居住し、僧侶の主導のもと、村の有力者とともに周辺の村々を勧化し、駒止橋を完成させたことが報告されている。画像左下の赤○部分に「岩崎瞽女」の文字が彫られているのがわかる。


▶いちばん左の解読図に「金三百疋 中村…」とあるが、「疋」はもともと布の単位で、鎌倉時代から江戸時代にはお金(銭)の単位として使われた。1000文=100疋=1貫文〜となる。つまり、百疋は銭(「永楽通宝」など)が1000枚分ということです。
 1貫文=10万円〜として支障はないと思う。百疋も10万円となり、三百疋は30万円となるが、今の価値に換算するのは価値観が違うのでそのまま今日に換算するのは難しいと思う。(つづく)