【しん散歩(17)…昭和36年撮影、田無町民運動会】

【しん散歩(17)…田無町民運動会】

 

f:id:shinju-oonuki:20190610213140j:plain

写真上=田無町民運動会「日の丸リレー」昭和36年撮影。(『なつかしの田無・保谷西東京市図書館)より転載。 ・写真下=上と同じとおもわれる場所・西東京市田無町1丁目を2019年2月に撮影。古い写真の撮影場所を田無駅前だと勘違いしていたので、なかなか場所の特定ができませんでしたが、あの田丸屋があった青梅街道と所沢街道の分岐点だとわかり、納得。


 

 

f:id:shinju-oonuki:20190611075336j:plain

みなさんご存知の『御嶽菅笠』(靱矢市正蔵板、天保5年)です。この図の左にある田丸屋の庭で挨拶をしているのが下田富右衛門で、右橋の柳家で天秤棒を担いでいるのは、海老沢久右衛門だろうと言われています。左上の写真は昭和53年頃の柳沢宿付近。(『田無のむかし話』田無市立中央図書館、昭和54年)から転載。
 
 

f:id:shinju-oonuki:20190610205738j:plain

明治時代に描かれた田丸屋ですが、かなり正確な見事なデッサンですね。ここにも、しっかりと柳沢庚申塔が描かれています。(「明治前期測量2万分1フランス式彩色地図-第一軍管地方二万分一迅速測図原図覆刻版-東京都練馬区保谷市,埼玉県新座市和光市朝霞市周辺」より転載)。

 

f:id:shinju-oonuki:20190610213745j:plain

迅速地図の田丸屋のデッサンと同じように中央に正面金剛造と大きな木があります。右への道は所沢街道(反応道)です。昭和27年の日米地位協定締結により進駐軍在日米軍となった後も、昭和30年代頃まで英語表示が見られました。道標の看板はほとんどが英語表示の看板ですね。写真は「柳沢塾追分、昭和29年に撮影」(『写真で見る わがまち西東京』郷土出版社、2015年)より転載。



 

 

f:id:shinju-oonuki:20190610210034j:plain

これも田無1丁目交差点の写真です。「柳沢庚申塔、亨保8年造立青面金剛」昭和39年撮影。(『田無市文化財」1994年)より転載。昭和39年撮影。この写真は、柳沢庚申等がよく映るように撮ってあり、隣のコカコーラの看板もはっきりと写っています。

 

 

f:id:shinju-oonuki:20190610211843j:plain

これは昭和35年に撮影された田無町1丁目交差点ですが、このころは、ここに交番があったんですね。「柳沢宿、青梅街道所沢街道三叉路、昭和35年」(『写真で見る わがまち西東京』郷土出版社、2015年)より転載。

 

 

f:id:shinju-oonuki:20190610215134j:plain

大きな木も交番も青面金剛供養塔も消えて、三階建ての店に変わっています。柳沢宿付近、昭和53年頃。写真は、『田無のむかし話』(昭和54年、田無市立中央図書館)より転載。

 

 

f:id:shinju-oonuki:20190610220022j:plain

写真は平成17年12月に撮影。今はこんな感じです。

 

 

f:id:shinju-oonuki:20190610220805j:plain

この地図は、明治末期から大正初期の頃に柳沢宿(田無町1丁目交差点)です。赤丸部分に「機関車」とありますが、なんでしょうか? 気になって調べてみたら、こんな説明がありました「明治末期西武軌道株式会社が、荻窪から田無までの青梅街道に路面電車軽便鉄道を敷設することになり、機関車の車庫予定地となったところ。ここには東から、タバコ屋、貫井馬力屋、八百長、ちょうちん屋、と四件の商店が並んでいたが、この時移転する運命とになった。予定地が空き地となり線路が武蔵関あたりまで敷かれたところ、資金難のため計画は中止された。第一次世界大戦の勃発により鉄の値が急騰しこの線路も間もなく回収された。機関庫予定地はしばらく空き地のままとなり、第二次世界大戦の始まった頃、まずここに青物市場ができ、次々と店屋が並び始めた。それまで空き地は芝居小屋がかかったり、大正12年頃にはテニスコートがつくられたり、町の人達の憩いの場所だった。」(『田無のむかし話』)。と、ここの場所のなが〜い歴史が語られていました。地図は、「明治末期から大正初期にかけての街並み」(『田無のむかし話』西東京市中央図書館、昭和54年)より転載。

 

f:id:shinju-oonuki:20190610221410j:plain

西武軌道株式会社が、荻窪から田無までの青梅街道に、路面電車軽便鉄道敷設が成功していたら、保谷・田無の青梅街道にもこんな路面電車が走っていたかもしれませんね。写真は昭和20年代に撮影された「荻窪と新宿を結ぶ都電杉並線」(「荻窪東町会」より転載)。「同じ青梅街道の地下に建設され1962年(昭和37年)に全通した営団地下鉄荻窪線(現:東京メトロ丸ノ内線)と競合関係となり、1963年(昭和38年)と早い段階で廃止。」(ウィキペディア)とあり、昭和38年まで走っていたんですね。



 

f:id:shinju-oonuki:20190610221658j:plain

田無ばやしについて、「田無には祭囃子がありましたが、完成されたものではありませんでした。しかし、明治末期に西林源六氏が関東一の御囃子の名人といわれた多摩郡千歳村船橋(現世田谷区)の内海軍次郎氏に弟子入りし、それまでの古い田無囃子を改良して今日の「速間流田無囃子」を完成させました。現在は「速間流田無ばやし保存会」が伝承しています。」(「西東京市Web」より)と記載されています。この西林源六氏が住んでいた家が、青梅街道と西武新宿線のガード東側にあるのが『青梅街道街並み変遷図』で確認できました。写真は、『田無のむかし話』(昭和54年)より転載。

f:id:shinju-oonuki:20190610221817j:plain

西林家について、「屋号は伯楽(はくらく)といって、江戸時代に獣医であった。ご当主三代松氏(明治40年生)の父源六氏は大のおはやし好き。世田谷の千歳から神田ばやしの名人内海軍次郎先生を呼び、棒打ちも麦踏みもそっちのけで、毎日毎日猛練習。先生は三食付きの泊まり込み。ほかにも三度の飯よりおはやし好きな連中がいて、そこへ出稽古にも出かけた。個人授業でみがいた腕はめきめき上達。いつしか源六氏は、はやしの名人となる。現在市指定文化財第二号となっているこの田無ばやしは、源六頃すでに田無に伝わってきたといわれるが、まだまとまりのないものだったらしい。その形を整へ、普及させたのが源六氏なのだ。現在、三代松氏を中心に保存会(会員、小学生を含め約25名)が誕生し、田無の伝統芸能は今なお守り続けられている。」(『田無のむかし話』昭和54年より)と記されている。写真は西林宅。

f:id:shinju-oonuki:20190610221934j:plain

この西林家の敷地内を、戦時中に中島飛行機ひばりヶ丘の中島航空金属を結んでいた軍用軽便鉄道が走っていたと言われています。写真は西武新宿線西武柳沢駅と青梅街道ガードの間にある軍用軽便鉄道が使っていたトンネル。トンネルの先の緑の部分が西林家の敷地。

 

 

f:id:shinju-oonuki:20190610222311j:plain

赤丸部分がトンネルがあるところ。地図はTEXAS大学図書館のサイトにPBで公開されている、旧米国陸軍地図局が1945〜1946年に制作した路線地図を利用。

 

 

f:id:shinju-oonuki:20190610222411j:plain

西林家の敷地を抜けた軍用軽便鉄道は、ガード下バス停の処から青梅街道を横断し南進。青梅街道の南側にある路地は、線路を敷いた頃はなかったので、写真に写っている路地に沿ってはいなかったのではないかと思われますが、ほぼこの辺りから石神井川に向かっていたのだと思います。

f:id:shinju-oonuki:20190610222506j:plain

富士街道の入口に建てられている「弘法大師供養塔」。側面が道標を兼ねているということだが、祠の中で堂の柵にかこまれてあることや刻みが薄いことで読みずらい。嘉永七年(1854)建立のもので、側面は道標になっており、「練馬江三里 府中江二里半 所沢江三里 青梅江七里」と書かれているらしい。

それにしても何故ここに「弘法大師供養塔」が建てられたのだろうか? 同じものを指していると思われますが、西東京市文化財マップには「弘法大師供養塔」ではなく「東高野山道道標」と、表記されているのは何故だろうか? 東高野山の文字は記されていないと思うが、練馬区高野台3丁目10の東高野山長命寺への道しるべということか?

 

 

f:id:shinju-oonuki:20190610222647j:plain

庚申塔の文字が見えないので文献を探したら、『田無市文化財大2集』(田無市教育委員会、1994年3月)に次のように書いてありました。……「『道しるべ』には単に道案内のために建てたもの(道標)と他の目的で建てた石仏、石塔に道案内を併記したもの(道標銘)とがあります。単なる道標のなかには建てることによって功徳を得る信仰心によるものもあります。この弘法大師道標は信仰によるもので、御府内(江戸)八十八個所第七十番札所東高野山練馬区谷原・長命寺)の巡拝者の便宜を図って建てられた道標デス。御府内八十八ケ所は弘法大師が修行したと伝えられる四国の八十八ケ所霊場の写しを江戸に作ったものです。遠い四国の遍路は思うにまかせず『新四国八十八個所』と称して江戸時代以後各地に作られました。御府内も宝暦(1751〜63)の頃にできたといわれています。霊場巡拝は参拝することが目的ですから、証拠として霊場の朱印を受けることによって信仰心を満足させました。田無の近くでは石神井三宝寺の16番札所があります。」とあり、予想通り、東高野山長命寺)への道標でした。画像は、『田無市文化財大2集』より転載した東高野山道標(弘法大師供養塔)に書かれている文字の書き起こしです。