貴重な江戸の伝統野菜・保谷ウドが、生産者の都築俊さんから届いた!

西東京市都市伝説探検隊▶あの保谷ウドが! 俊ちゃんから届いた!】
 な、なんと、2月10日の【西東京市都市伝説探検隊】突撃インタビューで紹介した貴重な江戸の伝統野菜・保谷ウドが、生産者の都築俊さんから知人を介して届けられた。鮮度のいいうちに食しようと思い、早速、ウドとワカメのみそ汁にして食べさせていただいた。至福のひととき! なのだが、食べながらふと考えてしまった。「東京の伝統野菜ッていうが、ウドっていつごろから食卓に上っていたのだろうか?」と。


 さっそく調べてみました。『農業全書』(1697年)には「貴賎あまねく賞味するものなり」とあるので、江戸初期の頃にはすでに江戸庶民の食卓に上っていたようです。ウドの栽培については、「豊多摩郡に於ける土当婦(ウド)の栽培期限は文化年間(*1804年〜1818年)の頃より栽培せらしも……今や郡内特産物の一となるに至れリ」(『東京府農会報』88号、大正13年)とあり、1800年頃から豊多摩群(大泉、石神井、上井草、吉祥寺)などに導入されていたようで西東京市もこの中に含まれています。
 当時の栽培方法については『本朝食鑑』(1697年)に、“冬に根を掘り出し土に埋める”等と記されており、このころすでに山ウドを採集するのではなく、株を掘り出し1箇所に集めて土などを盛り栽培して、真っ白でアクの少ない「軟化ウド」、あるいは、地上に芽を出させたを「緑化ウド」を食べていたものと思われます。
 東京では地下ムロ栽培がほとんどだが、これは武蔵野台地関東ローム層という固く厚い土層で、掘っても土面が崩れず地下水も上がってこないなど、ムロを作るのに適した地層だったからだそうだ。
 うどは、「独活(うど)の大木」などと、不名誉な慣用句になっており、地上に出る前の若芽の時は食用とされるが、大きくなると食用にはならず、高さ2メートルほどにもなるが、柔らかくて弱いので建築用材にも使えないことから、体ばかり大きくて役に立たない人をそう呼ぶようになった。
 しかし、そうとばかりはいえない。「一ヶ所から数本のウドの大木が生えている場合は、1本は切り倒してよい。茎の硬い皮を削ぎ取ると芯の部分はセロリのように美味である。ここまで大きくなると生のままでもほとんどアクがなく、雑味もない。また、先端の部分はまだ柔らかいので、若葉や花芽がまだ出ていないものは摘んで天婦羅にできる。」と、大きくなっても食べる方法はあるようだ。根も独活(どくかつ、どっかつ)と呼ばれ、薬用にもなるというから、本当に素晴らしい江戸の伝統野菜だ。