90年前の写真と変わらぬ風景を見つけた!

西東京市都市伝説探検隊☜90年前の千川上水分水口と変わらぬ風景を見つけた!】
 西東京市の最南端に、玉川上水千川上水が流れているが、どこまでが玉川上水で、どこからが千川上水なのか知っていますか? 
 気になって調べているうちに、千川上水分水口の写真を見つけた。説明文には「東京府北多摩郡保谷村小金井境橋上流。玉川上水との分岐点。水門は玉川上水左岸に設けられ、幅一米半、鉄製の引上戸の装置がある。千川はこゝから暗渠となつて五日市街道のしたを通過する。」(『千川上水昭和16年版復刻)と記されている。これだ!ここが玉川上水千川上水の分岐点にちがいない。


 いざ、確認に行こうと思って地図を見たが、「保谷村小金井境橋上流」ってどこだろう? とにかく地図で確認できる「境橋」までいってみようか。1日目は発見できずに終わる。翌日、小金井公園の辺りから流れに沿って下りながら探す、と、「これか!」。昔の写真と同じたたずまいで待っていてくれた。


大正15(1926)年に撮影された写真とほぼ同じような姿の千川上水分水口が、90年間の時を隔てて、また、あらたな写真に収められた。
10mほど下流に、川に降りる階段とコンクリート板を渡した橋があるが、水をせき止め千川用水に水を流す分水堰の余水吐き(よすいばき)だろう。


文中にある「鉄製の引き戸」も錆びてはいるが、姿は昔のままだ。


古い写真の土手に生えている細いケヤキの木が、90年間その位置にいて育ったのだろうか? おだやかな変化しか見せない風景は悠久の時の流れを感じさせてくれた。
  千川上水は、元禄9(1696)年に開通し、江戸市中の上水として、あるいは潅漑用水として重要な役割を担っていた。この分水口は明治4(1971)年に建造され、新しい時代の需要に応え工業用水としても利用されたことで1970年まで存続した。こんなに重要な遺構が市の文化財に指定されていないのは、なぜなんだろうか?