高島屋包装紙のバラを描いた高岡徳太郎

「粋美挿画展」を見た後、古書モールや青空古書市を眺めて歩いた。数冊購入した中に「サンデー毎日」(大阪毎日新聞社・東京日々新聞社、昭和12年9月号)がちょっとした掘り出し物。ほのぼのと癒される表紙がいいのは勿論だが、初めて出会う挿絵画家の絵がたくさん掲載されていて、久しぶりに挿絵画家たちのサイン事典に新しいサインを追加することができた。表紙の高岡徳太郎(1902−1991)も初めて出会う画家だが、高島屋包装紙のバラを描いたのが高岡のようだ。高岡については略歴が http://bookcover.exblog.jp/10305041 にある。

サンデー毎日」(大阪毎日新聞社・東京日々新聞社、昭和12年9月号)表紙絵:高岡徳太郎



高岡徳太郎サイン



高岡徳太郎:画、高島屋バラの包装紙

高岡徳太郎については、田代光が新聞小説挿絵をはじめて依頼されたのは「昭和十五年三月から八月にかけて読売に連載された戸川貞夫の『光に立つ』が最初だ。ふしぎに田代光には光に縁があるようだ。さらに同年十一月から翌年四月へかけて、吉屋信子の「花」を毎日紙上で担当し、彼の名前は一躍有名になった。もっとも毎日新聞からはそれ以前に一度別の作品で依頼があった。石川達三の「母系家族」だが、高岡徳太郎のさしえがあまりにも個性的で、大衆性にとぼしく、学芸部内でさしえ家を交替させる意見が出て、内々で交渉をうけたのだった。田代光は洋画壇の大先輩にたいして失礼だと思い、一度はことわったが、無理にたのまれてひき受ける気になった。だがいよいよスタートというところで石川達三から待ったがかかり、自分が推薦して一緒に仕事をはじめた高岡徳太郎を下すのなら、連載をやめると言い出し、御破算になったのである。田代光はこの石川達三の筋をとおす態度にうたれたそうだが、それが縁で「花」の仕事を依頼されたのであろう。」(尾崎秀樹「挿絵の50年」平凡社、1987年)と、あるが、高岡が描いた「母系家族」の挿絵はまだ眼にしていない。

 ちなみに、富岡徳太郎(1902-1991)は明治35年、大阪・堺市に生まれる。松原三五郎の天彩学舎に学び、上京し本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事する。大正12年高島屋宣伝部に入社。大正13年高島屋大阪に戻り信濃橋洋画研究所に入所。昭和2年、二科展に入選。昭和9-10年渡仏。
 昭和5年まで長堀橋高島屋で宣伝部図案主任をしていた高岡徳太郎は、装丁でも北尾鐐之助『近代大阪』(創元社昭和7年)や獅子文六『達磨町七番地』(白水社昭和12年6月)などがある。



神保町青空古書市でなくともいつも立ち寄る古書モールのけやき書店の棚で神保朋世(1902−1994):画、野村胡堂『新篇銭形平次捕物控』(千代田書院、昭和10年12月)を格安で購入。必要がないとなかなか購入しないものだが、気になっている本が安価で見つかるとつい購入してしまい、家の2部屋が足の踏み場もなくなっている。

神保朋世(1902−1994):画、野村胡堂『新篇銭形平次捕物控』(千代田書院、昭和10年12月)