『名取春仙』(櫛形町立春仙美術館、平成14年)にも、74歳の時「1960(昭和35)年3月30日午前7時、妻繁子とともに高徳寺境内名取家墓前で服毒自殺」とあり、このことは昭和35年3月30日の夕刊で報じられているので、間違いないだろう。となると、昭和22年刊『煤煙』に森田が記した「故名取春仙君…」とは何だったのか。戦後間もない昭和22年に目黒区鷹番町に転居しているので、森田草平には誤報が伝えられたのだろうか? いずれにしても復刻は春仙に伝えられなかった。
大正3年刊行の時にも装画は沢枝重雄が描いている。