堂昌一がいつごろから本格的にさし絵を描き始めたのか、そしてデビュー作は何だったのか、等という事については、インタビューでもはっきりしなかった。さし絵を描き始めた頃は「明星」や「平凡」などの付録に付いていた歌本のカットなどを描いていたというのが、答えだった。『堂昌一画集』(ノーベル書房、平成4年)巻末に記されている略歴によると

1941(s.16)年(*22歳)本郷絵画研究所に学ぶ
1944(s.19)年(*25歳)大東亜戦争美術展、聖戦美術展出品、陸軍美術協会会員
1974(s.49)年(*48歳)岩田専太郎氏死去により「週刊文春」連載中の松本清張西海道談綺」のさし絵を引き継ぐ
とあり、さし絵のデビューについては書かれていない。
本文中に最初に登場する作品では、笹沢佐保「日暮妖之介」(「週刊小説」1972)が、一番古い。


堂昌一岩田専太郎の連載を引き継ぐにはそれなりのキャリアと実力を認められたからだろうが、「徳川家光」や「西海道談綺」以前のさし絵を探し出し、その実力のほどを立証してみようとしているのだが、昭和20年代〜30年代の雑誌や新聞を漁るしか方法がないのだろうか。大変だ。


手許にある週刊誌を探ってみると、「週刊大衆」昭和36(1961)年10月2日号に山村正夫「空白の断層」、堂昌一35歳の時に描いたさし絵を見つけた。この時にはすでにかなりキャリアを積んでいるように見えるので、戦後間もない頃にも仕事があれば描いていたのではないかとも思われる。同誌には師と仰ぐ岩田専太郎が、山手樹一郎「浪人市場」のさし絵を描いている。二人の競演を観賞してみよう。



堂昌一:画、山村正夫「空白の断層」(「週刊大衆」昭和36年10月2日号)



堂昌一:画、山村正夫「空白の断層」(「週刊大衆」昭和36年10月2日号)



岩田専太郎:画、山手樹一郎「浪人市場」(「週刊大衆」昭和36年10月2日号)



岩田専太郎:画、山手樹一郎「浪人市場」(「週刊大衆」昭和36年10月2日号)