中学生の頃からの習慣で、3冊を同時に読み始めた。今回は下記の3冊。

・ウォルター・クレイン『書物と装飾』(国文社、1990年)
・J・R・テイラー『英国アール・ヌーボー・ブック』(国文社、1993年)
・西村清和『イメージの修辞学』(三元社、2009年)


たくさんの本をカバンに詰め込んで持ち歩いているので、往診に出掛ける医者のカバンのように、いつも膨らんでいて重い。1冊だけに集中して読むことが出来ず、途中で飽きてしまうので、いつも2〜3冊を持ち歩き同時に読みはじめるのが習慣になった。義務教育で1時間ごとに授業内容が変わってしまうのに慣らされてしまった弊害が残っているのかもね。


今朝の通勤電車の中では『書物と装飾』を20〜30ページ読み、帰りの電車の中では『英国アール・ヌーボー・ブック』を20〜30ページ読む。こうして、3冊を1ヵ月ほどかけて少しずつ読み進め、読了した時には、1200頁に及ぶ大部の本を読み終えたかのような満足感を得ることが出来る。そして、一時的とは言え「近代挿絵、アール・ヌーボー」などのキーワードには滅法強くなったような錯覚に陥らせてくれて、学者にでもなれたような気になる。これが心地よくて知らず知らずのうちに中毒に陥る。



ウォルター・クレイン『書物と装飾』(国文社、1990年)
昨日の帰宅時の電車の中で読んだ部分には、15世紀後半、グーテンベルグの印刷技術の革新により活版印刷が盛んに行われるようになり、写字生による手彩色の本は影を薄め、木版画が台頭してくる。この活版印刷と木版によるさし絵やオーナメントの組み合わせが印刷物のグレードを高め、アルフレッド・デュラーなどが後世に残る見事な誌面を構成を残した、というようなことが書かれていた。



ジョン・ラッセル・テイラー『英国アール・ヌーボー・ブック』(国文社、1993年)
本日の出勤電車の中で読んだ部分には、英国のアール・ヌーボーヨーロッパ大陸でのアール・ヌーボーの違いがかかれていた。確かにガウディのサグラダ・ファミリアミュシャのポスターなどは、曲線を自由奔放に使って、画面の隅々まで埋め尽くされているいるが、ビアズリーなど英国のデザイナー達は、建築事務所での労働経験がある人が多く、無駄のない線で構成され、画面の空間をうまく利用して、それぞれの面は平面的に処理されている。こんな比較が妥当であるかどうかはわからないが、ミュシャのポスターとビアズレーのさし絵を思い浮かべれば、理解できそうだ。



画:アルフォンス・ミュシャ「芸術・舞踏」1898年



画:オウブリィ・ビアズレイ「孔雀の裳裾」1894年




西村清和『イメージの修辞学』(三元社、2009年)
昨日読んだ部分には、漢文や文語体しかない明治初期の文筆家達は、表現の幅が限られてしまうことに不満を抱き、漢字の廃止やローマでの表現などを模索し、言文一致体にたどり着く、というようなことが書かれていた。


ちなみに先月正月休みを利用して読んだ本は、本棚にあった本の再読、三読で、付箋や傍線がびっしりと付いており、読み潰す覚悟で読んでいる事実上の愛読書だ。
海野弘『日本のアール・ヌーヴォー』(青土社、1988年)
・木股知史『画文共鳴』(岩波書店、2008年)
2度目になると、内容をよく理解できる。3度目にはまるで自分の著書であるかのように、著者に代わって内容を説明できるようになる。必要なところは丸暗記したような状態になる。


その間にも、資料とか参考文献として記されているものは、できるだけ手に入れて読み漁る。こうすることで、著者に限りなく近づく。今回は
江藤淳漱石アーサー王傳説』(東京大学出版会、1975年)
芳賀徹『みだれ髪の系譜』(美術公論社、昭和56年)
・和田博文「詩画集というコンセプト」(高橋新吉研究会「甲板」、和泉書院、1992年)
磯田光一鹿鳴館の系譜』(文藝春秋、1983年)
等の必要な部分だけを拾い読みする。


ここまでくると、著者のコピー人間になるだけではなく、自ずと新たな独自の視点や論点が見えてくるもので、自分の趣味の世界が確立されてくる。いや、そうならないものかと願っている。