『宮本武蔵』の挿し絵は矢野橋村と石井鶴三の二人で描いたが、驚くなかれ、吉川英治『太閤記』には8人の画家たちが関わっている

吉川英治太閤記』は昭和14年1月1日から20年8月23日まで読売新聞紙上に連載された新聞小説だ。この執筆時期はちょうど第二次世界大戦と重なり、戦時下に書き継がれ描き繋がれながら誕生した。この戦時下という特種な事情が、1つの小説に多くのさし絵家を登場させることになった。


吉川英治新書太閤記』全12巻(読売新聞社、昭和40年)には、これらの8人のさし絵家が描いた挿繪をハガキ半分くらいの大きさで眺めることができる。ここに掲載されている挿し絵が新聞に掲載された挿し絵の全てなのかどうかは分らないが、かなりたくさんの挿し絵が掲載されている。



担当した八人の挿し絵画家たちとは、近藤浩一路、福岡青嵐、新井勝利、江崎孝坪、木村荘八、北村明道、玉村吉典、森村宜永。
当時は、それぞれのさし絵家がそれぞれに途中で降板しなければならないやむにやまれぬ事情があったものとおもわれ、こんなにもたくさんのさし絵家が代わるがわる担当することになったのであろう。時代背景の大変さがこのことからだけでも推察できる。


挿し絵を担当した順に近藤浩一路、福岡青嵐、新井勝利。




江崎孝坪、木村荘八、北村明道。




玉村吉典、森村宜永。





この『新書太閤記』全12巻に付されている月報に編集者の体験談が掲載されており、当時の編集の大変な様子がよく判り面白いので、転載させてもらおう。


矢沢高佳「会わずじまいの作家と画家」(「真書太閤記付録」読売新聞社、昭和40年5月10日)より
「吉川さんは敗戦の8月15日で筆を断ってしまったし、私も25日に社を辞めるまで13日から出社せず田舎へ帰っていたので、本来なら8月15日以降は紙面には出ないわけだが、森村さん(最後に太閤記の挿し絵を書いた森村宜永氏)のお話によると、8月20何日かまで掲載されたという。


森村宜永氏は宜稲氏の息子さんで、上品なおとなしい絵をかかれた。戦禍の中の東京などに住んでいる画家はいなかったので、森村さんが描いて下さるというので大変有り難かった。おまけに焼け出されて転々とし、当時青野季吉氏の家の留守番をしていた私たちに、離れの茶室をかしてくれるというので生きかえった心持ちだった。


……ただ残念でならないのは、森村さんを一度吉野村へお供使用と思いながら、遂にそれを果たすことができなかったことである。吉川さんも森村さんを知らずに互いに文章を書き絵を描いて、太閤記を作り上げていたわけである。」


新書太閤記』全12巻は、一時中断してしまった『太閤記』の執筆を、昭和24年秋に『続太閤記』として中京新聞ほか地方社7紙に掲載したものに一部を書き卸し、一つにまとめたものである。続編の挿し絵は3番目に登場した新井勝利が担当した。落款も画風も戦前のものとは変えて一段と風格を増した見事な挿し絵を描いている。新井の落款を見ていると絵の善し悪しは、落款の善し悪しにも繋がっているように思えてきた。