キネマ文字の初めは……を追いかけてきたが


昭和の初期に、お洒落な文字として大ブームになったキネマ文字の発生を追いかけてきましたが、先月購入した「映画生誕100年博覧会」川崎市市民ミュージアム、1995年)に掲載されている
・「嵐の孤児」(1921・大正10年)
・「幌馬車」(1923年)
・「ダグラスの海賊」(1925年)
・「雀」(1926年)
などが、キネマ文字の揺籃期の作品群であることが揺るがない事実だと判った。今まで、「ああ活動大写真」(朝日新聞社1976年)等で調べてきた結果ともほぼその時期は一緒であり、最初のキネマ文字を使ったポスターを特定することはできませんでしたが、今回見つけることができた「嵐の孤児」(京都工芸繊維大学工芸資料館蔵、1921・大正10年)が暫定「キネマ文字を使ったポスター第一号」ということで、決着させようと思います。




キネマ文字の発生時期を探しているうちに、それまで全く映画の歴史などに興味を持っていなかった私ですが、古書市などで映画の話の本を見つけると、すぐに手に取るようになりました。先週も小宮山書店のガレージセール・3冊500円で「目で見る昭和」(朝日新聞社、昭和47年)を購入してしまいました。


そこには2つ映画に関する記事が掲載されていて、そのうちの一つは「トーキーの出現」で、
「●トーキーの出現……五月に、初めてトーキー映画が公開された。国産ではなく外国映画で、東京・有楽町の邦楽座でのパラマウントの「レッド・スキン」がそれだ。初めは、せりふは、今のようにフィルムにスーパーインポーズされていなかったので、従来通り、弁士がしゃべった。音楽や効果音だけが鳴り響くというものだった。そのため、まず楽士が不要となり邦楽座では楽士の全員をかいこした。」
というものだ。



もう一つは「トーキーとチンドン屋」と題する記事で
「トーキーの出現は、まず楽士の解雇となった。弁士の方は、外国映画の場合、初めは、セリフだけは彼らがしゃべっていたが、前の年、パラマウント映画の「モロッコ」で初めてスーパーインポーズという、今も行われているフィル厶に文字を入れる方法がとられるようになって、弁士も不要ということになった。


日本映画の方も、前の年六月、国産初のオール・トーキー「マダムと女房」ができ、弁士、楽士に大恐慌を与えることになった。四月になって、東京・浅草の弁士、楽士など百七十名が、反トーキーのストライキを行い、やがて全国に波及したが、映画トーキー化の大勢には勝てなかった。


楽士の中には早くも、前途をあきらめて、それまでのヒロメ屋にクラリネットなどを加え、洋風にしてチンドン屋として街頭に進出したものがあった。」
とあり、映画はチンドンヤの発生にも関係していたとは驚いた。



昔は、スーパーインポーズが縦書きだったんですね。歴史って「本当に面白いですね!」



■「つくる会」だより第6回、2007.10.26

某雑誌の表紙に2年間合計24枚の水彩画を提供することになり、ほぼ40年ぶりに描くことになった。昔取った杵柄とは言いますが、絵の具の名前さえも忘れていました。


まして、それぞれの色の特徴や筆の使い方、さらには、絵の具の解き具合や乾いていく速度、その上に乗せていく色やタイミング等々、少しずつ思い出し確認するように練習しています。



今回この仕事のために絵の具も購入しました。ウインザー・ニュートンの12色を基本に自分の好きな色を10本ほど加えたのが、私の全絵の具です。セットに入っている色の中にはあまり使わない色もあるので、1本ずつ必要な色を加えていこうと思っています。濁ったような色は混色してつくればそんなに沢山の絵の具は入りません。


筆は100円ショップのナイロン筆というものですが、これがとても使いやすい。画面から筆を放すときに元の形にしゃきっと戻る筆が使いやすいと思います。安い筆はたいがい描いているときの曲がった状態のそのままの姿で画面から離れます。