山本圭が語る戦時中の高橋忠弥

話が、少し戻りますが、俳優・山本圭氏が、幼い頃に高橋忠弥と交流があったことを「作家登場高橋忠弥」(「みづゑ」美術出版社、昭和44年)に書いているのを見つけた。


戦時中戦後、浜田山に住んでいた頃の話で、建築業をしている山本圭の父親と忠弥は近所の酒屋での飲み友達で、晩年、忠弥がフランスから帰国したときにアトリエを設計したのも山本の父親だったという。そんなことから、山本は高橋に絵を習うようになり、子どものいない高橋は山本を養子に欲しいと何度も山本の父に願い出たという。山本は、「おじちゃんの家は貧乏でパンばかり食べているからいやだ」(前掲)とこたえたそうだ。


そんな山本の文章を引用して紹介しよう。
「高橋のおじちゃんは戦時下の日本で思想的に要注意人物であったらしい。従って高橋さんの外出する後には、常に刑事の尾行がついていたのである。……昭和20年になり、空襲も激しくなり、浜田山のような麦畑ばかりに所へもドンドン焼夷弾が落ちはじめたころ、高橋さんは浜田山からいなくなった。私にはいなくなったという感じしか持てなかったけれど、実は兵隊にとられたのである。


海軍という土の臭いとは縁遠い、高橋さんには似つかわしくないような、似つかわしい感じもするような所へ強制連行されていったのであるが、勿論要注意人物であったろうとおもわれる。


そのためかよく殴られたようである。海軍だから例の精神注入棒という奴でやられたのうだけれど、殴られるという事に色々な形で抵抗しては前にも増して殴られ、殴られながらもまた抵抗したという、要領の悪い兵隊だったようである。


 私は最近まで高橋さんは軍隊には行かなかった人という感じを持っていた。それは高橋さんの口から一度も例の人からよく聞く軍隊時代の想い出話というやつが出てこなかったからであろうか。意識的に当時の話をしたくないようでもある。」〈前掲)