なぜ忠弥は小学校の先生(訓導)をやめたのか?


忠弥の装丁本を集め始めたときに、すぐに疑問になったのは、どうしてどの略年譜も10行程度のものしかなく、年表としては甚だ不完全なものばかりしかないのだろうか? ということだ。忠弥のことについて書かれた文章が少ないこともあるが、展覧会や雑誌の特集などを組んだときにはもっと詳しい年譜を作って欲しかった、との不満を感じていた。


そんな思いに応えてくれる資料を見つけた。村上善男『松本俊介とその友人たち(新潮社、昭和62年)が、その本だ。村上は、岩手県の斉藤忠誠宅を訪ねたり、東京杉並区の忠弥のアトリエ「雀頭居」で佐々木弘に会うなど、足を使っての取材をして情報を集めたようで、その情熱には頭が下がる思いだ。
写真は、装画:松本俊介、装丁:著者自装、村上善男『松本俊介とその友人たち(新潮社、昭和62年)



そんな貴重なデータが、忠弥に関しての一つの疑問を解いてくれた。
「忠弥は明治45年4月25日生れ。本籍は東京だが、盛岡そだちで、岩手師範本科(現・岩手大学教育学部)卒である。後忠弥が中野小学校(盛岡郊外)訓導(*1)の頃、無給の手伝い(臨時代用教員)を三月ほどやった佐々木一郎(神子田生れ、画家)の話では、忠弥はユニークな油絵の描き手としては勿論だが、進歩的作文教育で知られていたらしい。因に、佐々木は岩手中学校を卒業し、岩手師範に入学する前の浪人時代であった。昭和9年の事とする。」(前掲)

(*1) 訓導=旧制小学校の正規の教員の称。学校教育法で現在は教諭。(『広辞苑』より)


佐々木弘を訪ねて確かめたこととして、「昭和8年3月に岩手師範学校本科一部を卒業後、1年だけ軽米小学校訓導となり、その後中野小学校に転じていた。高橋によれば作文と図画を通じ、「生活」をじっくり見つめる態度を児童達に身につけさせたいと願っていたらしい。その辺にころがっている石に、彩色させ、なにかを形づくらせることや、落葉をコラージュしたりする楽しい授業は、子供達に喜ばれた。時代はファシズム台頭期で、学校教育の現場にも、さまざまな方針が持ち込まれている中で、今風に言えば進歩派の訓導であった。かたわら岩手日報社に勤務していた学芸欄担当の森荘巳池(直木賞作家・賢治研究家)の依頼で、エッセイを書いたりしている。その中の一つ「教官記」が、思いがけない事件をまきおこす。」(前掲)


写真が汚いのは、「本の装い」に掲載されている、高橋忠弥装丁、森荘巳池『店頭(みせさき)』(三藝書房、1940年)をコピーしたものの複写だからで、申し訳ない。見返し(上)とポスター(下)。
キャプションには「高橋と著者の森荘巳池との交流は深く、この小説集の装画を森に頼まれた高橋は、芥川賞審査に間に合うように絵をすぐに描いたという逸話が残っている。」と記されている。『店頭』は森の処女作でもあり、芥川賞候補になる。森は昭和18年『蛾と笹舟』で第18回直木賞を受賞するが、この小説は戦時中ということもあり、単行本にはなっていないようである。
最近になってから「蛾と笹舟」は『オール讀物』平1年3月増刊号に掲載されたのでとりあえずは読むことはできるようになった。
また、川口則弘編、海音寺潮五郎著『消えた受賞作 直木賞編 ダ・ヴィンチ特別編集 7』(メディアファクトリー、2004年7月、価格:1,575円(税込)、B6判334頁)にも入っている。



「──「教官記」はねえ、別にたいしたことは書いてないのよ。当時各学校に配属されていた軍事教練の教官(この場合師範学校)の態度を、ほんの少し揶揄したというだけ。
 たちまち憲兵隊の忌避するところとなった。一小学校の訓導ごとき者が、帝国軍人をオチョクルのか、というわけだろう。岩手県の教育の総元じめの教育課?の部長によばれ、こんなふうに耳打ちされたらしい。君の書いていることは、別にどうってことはない。そのことをあれこれ申すのではないが、現実に、大きなさわぎになっている。教育者としては、ふさわしいかどうか。結局、止めろと言っているのだ。」(前掲)


「高橋は、こう考える。どうせ理想の教育はでき難くなっているし、自分は教師にむいてもいない。公職追放の形で止めると、師範卒業者が教員をしない場合に、国に一括して支払わなければならぬ奨学金を支払わなくてもいい。むしろ、これはもうけものだし──。〈赤い訓導騒ぎ〉はこうして終った。高橋忠弥の盛岡は、いまわしい想い出の方が多く、数少ない友人は別として、盛岡そのものについては、あまり親しみを感じられぬと正直にはなす。」(前掲)


こんないまわしい体験が年表を空白のままにしているのかもしれない、と、思わせる内容だ。


高橋が盛岡在住時代に装丁や執筆活動をしていたのは森荘巳池との関係から生まれたものが多い。
写真は「本の装い』のコピーからの転載で、高橋忠弥装丁、『三藝』(三藝書房、1940年)。キャプションには、「松本俊介の『黒い花』ほか、多くの美術家が寄稿している。表紙絵は、フランス語を話す蟹の4コマ漫画である。」と、ある。