戦時中の忠弥の装丁


「高橋は、パリはとうてい無理として、どこか外国に出たいと考える。この国を脱出して絵を描き、しかも食べていけるなら、望外の幸せなのに、と思っていた。自分から申し出たのだが、ふさわしい仕事が見つかる。」(村上善男『松本俊介とその友人たち』より)


改造社の、雑誌『改造』報道記者として中国に渡るというものだ。編集長佐藤積と、大森直道(?)の世話であった。佐藤は、上海の、内山完造を紹介してくれた。四年間の活動について詳述する紙幅jはない。」〔前掲)


高橋は1939(昭和14年)から約4年間、北京、上海、蘇州で報道記者として中国に滞在し制作活動をつづける。この頃の装丁があるが、中国にいながら描いたのだろうか? 3点が手元にある。