文字が演じる書物の表情…7

●装丁作品の評価は装丁作家自らが下すというスタイルを守り通した田村義也


田村の作品にはいい意味での装丁家のわがままがある。それは、かつてロシアのレーピンが作家の自的精神と作品の価値を擁護して「芸術は公衆の奴隷となるべきではない。彼自身が自分の作品の最良の判定者である」とのべたが、田村のわがままもまさにこの言葉を実践しているかのような強い自己主張が感じられる。




装丁作品の質の低下を声高に叫ぶ声をよく耳にするが、その評論そのものがすべて正しいかというと、さほどの調査もなしに身近な作品だけを見てかってな論評をしている感が無いわけでもないが、言い当てているところもある。


最近は、出版社が下す装丁への評価は、稟議で決める版元が増えている。その多くは、発注するときに「カンプを3点提出してください」などの注文を出すことでわかる。社長や営業や役員会議で「比較検討」するために数点必要だと言う。この作品評価の構造が装丁を悪くしているのは間違いない。


たとえば、田村がやるように、原稿の査読、関連資料調査、思案、下書きなどに時間をかけて手書きの文字を創作しても、3点提出すればその時間をかけ手塩にかけた作品が採用される確率は1/3になってしまう。そんな採用されるか没になるか分からないものに時間をかけるのは馬鹿らしくなってしまうのが発注者たちはわからないのだろうか。


装丁家に任せてしまうと、版元が求めるイメージ通りの作品が出来ずに、装丁家のわがままな作品発表の場になってしまうのではないかと危惧する編集者もいるが、あらかじめ丁寧な打ち合わせをすれば解決できるのだが、打ち合わせをする時に編集者が何のイメージも持っていないのが問題なのではないだろうか。


さらに、あらかじめ編集者がイメージを伝えてしまうと、出来上がった作品が稟議され没にでもなってしまったときには、イメージを伝えた編集者の責任を問われかねない。そんなサラーリーマンとしての保身作用が、装丁者に丸なげし3点作ってもらえば全ての責任は外部の装丁者の責任に押し付ける事ができるという逃げ腰の発注構造が装丁のレベル低下を引き起こしているものと思う。


円本ブームがあった関東大震災後頃から、装丁という創作活動が商業資本の中に組み込まれ、装丁作家の活動の範囲は広がった、と同時にそのための頽廃を余儀なくされている構造に巻き込まれてしまっている。そんなことを装丁作家自信が見極め身近らの創作する環境を考えていかなければならない。


今回掲載した田村の作品は、私が気に入っている田村の初期の作品だ。といっても岩波書店に入社したのが昭和23年だから、
安岡章太郎『軟骨の精神』(講談社、1968[昭和43]年)を装丁した頃は、入社21年目のベテラン編集者だ。どうして突然このような文字を書き始めたのかは『のの字ものがたり』のも書かれていないのでわからないが、これを装丁として採用させたことがまず第一にすごい。田村以外の装丁家ではこれを採用させるのはむずかしかったのではないだろうか。この作品には、評価は田村自身以外にはさせないという強さがあり、人一倍強い自分の創作物への信頼がある。創作者はこうでなければいけないという檄を飛ばされているかのようでもあり、ひれ伏させる強さを内在するこの作品からは、「どうだ!」という田村の声が聞こえてくるようでもあう。



このような読みづらいと言ってもいいような過激なデフォルメ文字を書くようになった動機について『のの字…』には、
安岡章太郎『軟骨の精神』(講談社、1973[昭和48]年)からはじまって
安岡章太郎『もぐらの言葉』(講談社、1973[昭和48]年)、
安岡章太郎『完成の骨格』(講談社)、
安岡章太郎『私説聊齋志異』(朝日新聞社、1975年)まで続いたとあるだけで、書かれていない。


そして「三冊とも、見返しにも、このデフォルメ文字を思うさまぶちまけてしまった。勝手なことをやり過ぎてしまい、安岡さんや編集者の諸氏にも申し訳なかったのだが…。……しかし、一般にやって良いこととやって悪いことがあって、著者の性質、本の内容、著者との関係、出版社のカラーを考慮するとなかなかのことで書き文字などをつくるわけにはいかないことはいうまでもない。書き文字は、私にとって、いつも不安である。」と、むしろ反省しているが、反省とは裏腹に、
安岡章太郎『セメント時代の思想』(講談社、昭和47年)や
鎌田慧『日本の兵器工場』(潮出版、昭和57年)と
デフォルメしすぎの書き文字を描き続けるしたたかさをみせている。


この頃の田村の作品には完全に脱帽するしかない。決して優れたデザインとは思えないが、独自の世界を作り上げ、揺るがない自信を秘めている。




田村の装丁の良さは安岡章太郎が「田村義也の装丁について」(『ゆの字ものがたり』別冊付録、新宿書房、2007年、定価3000円+税)に「田村義也は、装丁家ではないし、絵かきでも図案家でもない、一個の編集者であるに過ぎない。しかし、彼ほど本について知り、つねに一冊の本をモノにしようとつとめる装丁家はゐないのではないか。気のきいた意匠やデザインを考えるということでは、彼より優れた人が大勢イルカもしれない。しかし、本の装丁といふ仕事は、タダのパッケージではないはずだ。一つ一つの著作の意図を、より良いかたちで、より多くの読者に伝へるものではなくてはならない。だから、それは本当は、単なる意匠図案家の職域をこえた仕事であるのかもしれないのだ。」と、かいているが、この過剰サービスと言ってもいいほどののめり込みようが、多くの執筆たちに人気がある所以だろう。


『のの字ものがたり』にも『ゆの字ものがたり』にも巻末に「田村義也装丁作品一覧」が記載されているが、どちらかは田村義也のもう少し詳しい略歴にしてほしかったなと感じました。