【101冊の挿絵のある本(51)…童話童謡雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)の表紙絵全196点の内、清水良雄:画43点、武井武雄:画1点、鈴木淳:画1点を紹介します。】
清水良雄は鈴木三重吉との出会いについて、「『赤い鳥』の歴史は、また自分の歴史の重要な数頁に当たる。大正五年春美術学校を出ると、友人丸尾(※彰三郎)と一緒に、当時駒込富士前町の家を、初めて訪ねた。『三重吉』の愛読者であったからでもあり、また鈴木さんが童話の挿絵画家を需めて居らると聞いたからでもあった。……その後二年『君が画を引き受けて呉れるなら、童話・童謡雑誌を出そうと思うがどうか」と相談を受け、勿論二つ返事で、勇躍賛成して、遂に日本に嘗て比例のなゐ『赤い鳥』が生まれたのであり。大正七年六月、鈴木さんが三十六、自分が二十七であった。殆んど二人きりで何から何までやった輝かしい努力は、加賀屋かしひ『赤い鳥』の存在となった。」(「創刊前後片影」 『赤い鳥 鈴木三重吉追悼号』)と記している。
丸尾彰三郎は「漱石門下の異才と黒田清輝門下の秀才が、児童文学という舞台で邂逅する。そして二人のめぐりあいに立ちあったのが、ほかならぬ私であった。」(「清水良雄を惟う」『名作挿絵全集 第四巻)と、『赤い鳥』誕生に一役買ったとばかりに誇らしげである。
「『赤い鳥』発刊のいきさつについて.、〈画家を探していた三重吉が僕の絵を一目見るなり“ええのう!”と感激してくれてね、この人以外にないと思ったそうだよ。その時僕の見せた絵は鸚鵡を見上げる王子の絵だった〉と話された。〈君が絵を引き受けてくれるなら『赤い鳥』を出そう〉と三重吉氏は言われ、先生も進んで引き受けて『赤い鳥』が誕生したということであった。」(甲斐信枝「清水良雄」、『こどもの本』1983年月号)
『赤い鳥』創刊号の「標榜語(モットー)」には、「現在世間に流通してゐる子供の読物のもっとも多くは、その俗悪な表紙が多面的に象徴してゐる如く、種々の意味に於て、いかにも下劣極まる」と児童書の現状批判で書き始めている。
「創刊号の表紙には、馬に乗った子どもたちがデザインされている。『お馬の飾』と名づけられたこの洒落た表紙絵は、『赤い鳥』の自由でエキゾチックな雰囲気をよく示していたと同時に、西洋の風物に影響を受けた時代の機運を象徴している。今日でも『赤い鳥』についてかたられるとき、決まって引き合いに出される童画である。
赤いスカートの女の子ふたりが仔馬に乗っかっている。その馬には緑としろのマントがかかり、飾りとして金の鈴がぶらさげられている。外枠は金色の色彩、また題字も金というように、カラフルであると同時に、別世界に住まう子どもの存在を、洒落た筆致で演出している。はたしてこの絵はすべて清水のオリジナルによるものかどうか。上笙一郎は『《赤い鳥》創刊号の表紙のこと』(『児童出版美術の散歩道』所収)のなかで、この絵の図柄と構図がイギリスの画家ウォルター・クレインの画集『花のおまつり』(1899)所収のアイリスの絵と酷似していると指摘している。この絵以外にも初期の『赤い鳥』の挿絵にも類似した部分があるとのこと。」(「総説 挿絵と童画〔挿絵〕」『赤い鳥事典』柏書房、2018年)とあり、たくさんの洋書をさん小にしていたことがうかがわれる。
これが上笙一郎が「酷似しているというウォルター・クレインの「アイリスの花」(『フローラの饗宴』1889年)であるが、参照にしたものとは思えるが、「酷似している」とは言えないのではないか。ともあれ、清水良雄はウォルター・クレインに憧れをもっていたのだろう。
清水良雄は、ウォルター・クレインの影響を受けていたようですが、ウォルター・クレインは、浮世絵の影響を受けていたようです。作品の中にも浮世絵が描かれていました。絵の中に描かれている浮世絵は、二代歌川国貞「婀都満源氏花乃婦宇俗(あづまげんじはなのふうぞく」(1863年)の部分ようです。
「某氏がラジオ放送で童画家.としての先生に触れられるのを聞いた。『僕はあなたはもう油絵で十分生活できるのだから童画を描かなくてもいいじゃないかと云ったら、おこりましてね、“僕は生活のために子どもの絵を描いているんじゃない、子どもが好きだから描いているんだ、これからもやめないよ”といいましたね』と語られた。」(甲斐信枝「清水良雄」、『こどもの本』1983年月号)。