しん散歩(16)…石神井川沿い、都営第七住宅

【しん散歩(16)…石神井川沿い、都営第七住宅】
・写真上=田無町都営第七住宅、昭和35年(1960)撮影
・写真下=上と同じ場所を平成30年(2018)11月撮影
 今は、西東京市南町4丁目アパートというようです。旧田無町では、昭和26年から都営住宅が建ち始めました。昭和40年までに26箇所、1806戸が建設されました。はじめは戦災による罹災証明書を持つ人が多かったが、昭和30年代になると都市近郊に住まいを求める人の需要が増えました。


エレベータ据付工事をやっていましたが、5階建てとは……。住民は覚悟の上でしょうが、宅配便の再配達や、生協、人数の多い家への出前、引っ越し、妊婦さん、年老いた知人、などなど、大変だっただろうな!


「小平団地ができて宅地化が進み、石神井川に放流する600〜1500ミリの排水管4本が数年間に設置された。従来は上流に下水や排水管もなく、降った雨は窪地に自然にしみ込み石神井川の氾濫もなかった。しかし、小平の排水管と田無の排水管によって、梅雨期や台風などの時には石神井川に一挙に水が流れ込むため、1965年には大雨が降るたびに氾濫をおこす状態となった。下水管の整備がす約爺川の氾濫を促進したかっこうになってしまったのである。」(『田無市史第4巻』)。 写真=石神井川の氾濫で浸水した住宅街(場所不明)、昭和40年(1965)撮影。


Satomi Koikeさんからのコメント…… 最近は下水道が整備された為に逆に大雨や台風以外は枯川に成っている事が多いですね。


お風呂や台所、洗濯機の水はどこに消えてしまうんでしょうか?どこかに流れているはずなんですが。


Satomi Koikeさんからのコメント…… 下水道を通して処理施設に集めて処理水を川に再放流するのですがこの辺りは何処に処理施設が在るんでしょうね?


清瀬市東久留米市西東京市の家庭から出る「ごみ」や「し尿」を処理している「柳泉園組合には、燃やせるごみの処理施設(柳泉園クリーンポート)、不燃・粗大ごみ処理施設、リサイクルセンター、し尿処理施設、その他の施設として柳泉園グランドパーク(温水プール・浴場施設・野球場・テニスコート)があります。」とありますので、西東京市のし尿処理も柳泉園で行われているようですね。


Satomi Koike ゴミ焼却施設だけではなかったんですね〜。


ありがたいことですね。保谷・久留米・田無三町共同し尿処理場は、久留米町野火止に昭和40年に建設されたようですね。


Satomi Koike 汚水処理場はその昔ひばりヶ丘団地の近くにも在りました。
カクタス自動車教習所と通り一本隔てた向かいだったと思います。


今、昭和62年の地図を見たら、カクタス自動車教習所の南側に、住宅公団ひばりヶ丘団地汚水処理場がありました。自動車免許を取得するときにこの道は何度も通っていたのに、運転に気をとられていたせいか、全く気が付きませんでした。


Satomi Koike 偶に臭いが漂って来ましたねw


戦後、田無では雨で水が溜まりやすく農地に適さないて一夜窪地の宅地化が進んだ。そうした地域の排水対策として下水の整備が昭和30年代から進んで行く。直径60cmの排水管を地下に埋め、低地の水を石神井川に流した。昭和40年までに12本の下水管が埋設されたが、その排水量石神井川の橋梁を越えさらに、上流の小平にも団地ができその排水も加わり、大雨が降ると氾濫すっるようになった。石神井川の氾濫はある意味人災でもあったのではないだろうか?


池田公雄さんからのコメント…… ご苦労様です。下水については、昭和40年頃は、整備がされていないと思いますが、いまでは、荒川右岸流域下水と称して、近隣の市「清瀬、東久留米、東村山、東大和西東京」で整備をしていますね。
 昔は、雨水と生活排水が一緒になる、合流式が多く、河川への負担は大きかったと思われます。ただ、河川の整備(護岸の構築、河床の掘り下げなど)で、水道が変わったとも言われ、大雨の時の洪水の原因は定かではないですね。また、別の側面では、気象変動により、大雨(例えば、日降水量100m以上とすると。)増えているのも、事実です。


最近の予想外の大雨で、川幅と深さの基準が、変わりそうですね。石神井川に水を流せないのは、1時間の最大雨量に対応する基準を満たしていないことも一因だと聞いたことがあります。新たに大雨が記録されると、また、川の幅、深さの基準も変わらなければならないのかな?


池田公雄さんからのコメント…… そうですね。現時点では、時間50mmの降雨量を河道で流せることを目標にしています。
 しかし、西東京市として見ると、石神井川は、まだ良い方で、白子川の方が、もっと厳しいのが現実のようです。私の感覚から言うと、旧田無市は、それなりによく頑張っていたと思います。旧保谷市の方が問題はありそうです。
 でも、気象の異常が常態化すると、頑張っているレベルのアドバンテージも、すぐに無くなってしまうように思います。


保谷市にはすり鉢状の水が溜まる場所や、地下水堆がある場所など、河川の氾濫などとは違う特殊な水害が多く、未だに大雨が降ると道路などが浸水しているのを見かけます。


昭和16年6月に田無上空からの空撮です。赤丸部分が南町4丁目あたりです。戦前は田んぼか畑だったようですね。戦後、一斉に住宅が建ったのがよくわかります。


皮肉なものですね、側溝や排水管工事が終わったら、今度は、梅雨時の少しの雨でも川が氾濫するようになってしまったのだそうです。写真は昭和30年代後半に撮影。


Satomi Koike 都市河川の抱える問題ですね。


石神井川の洪水対応策として作られたのが、この調整池ですね。市内には何箇所もありますね。普段はグラウンドとして利用されていますが、根本的な解決策にはなっていないような気もします。


Satomi Koike 遊水地(池?)と言う奴ですね。取敢えず一時しのぎですね、無いよりは全然良いのでしょうが。


近隣都市に比べて西東京市は何かと後回しにされることが多いような気がします。石神井川の川幅の拡張は、23区内(練馬区)でほぼストップ。西武線の踏切の多さは、数えことはありませんが、東京の市区ではベスト3に入るのではないでしょうか? ベットタウン化して、重要な産業がなくなってしまったことや、青梅街道を除いては渋滞が起きても問題にならないような道路しかないことなど、他にも原因はあるかも知れませんが、時代にに置いてけぼりくらっていることを良しとすれば、むしろそれはいいことなのかもしれません。


南町1丁目の調節池は、昭和55年に完成したんですね。そういえば私が引っ越してきた昭和59年以降はあまり床上浸水とか、洪水という話を耳にしていないような気がします。この調節池、以外と役に立っているのかもしれませんね。


戦後、旧田無町、保谷末には都営団地が次々に建設されましたが、当時は、お風呂が付いていなかったので、団地の近辺には銭湯があったようです。『田無の統計』によると、昭和47年、旧田無市には16軒もの銭湯がありました。市内銭湯巡りをやってみたかったですね。


銭湯が増えると、盗難被害なども増えていたようです。「田無・保谷に板の間(※浴場における窃盗)が横行……最近田無保谷の寮長の銭湯板の間(特に女湯)が横行 田無地区署では女湯のことでその捜査に行悩んでところまたもや九日午後三時半ごろ保谷町下保谷三0三九松の湯で入浴中の保谷町下保谷一五三九星トヨノさんは厳現金千九十円在中の財布、同町一五九八今津美津子三(三四)は現金三百円在中の財布をそれぞれ盗まれた。同署では銭湯に行くときは余分な金を持っていかないこと、脱衣所に挙動不審な人がいた時は直ぐ届け出ることを望んでいる。」(毎日新聞、1954年2月11日)と、板の間稼ぎが新聞記事になるほどでした。


山下 昭夫さんからのコメント…… そう言えば子供の頃銭湯に行ったときはロッカーが一杯で(あるいは無かったのかも?)床に置いた脱衣籠に衣類を入れて入浴してました。あれでは盗難事件など起きて当然な時代でした。


昔は皆んな性善説を信じていたのか、確か雨に不用心でしたね。私の場合は盗まれるものがなかったというのが本当のところです。


都営第六住宅(昭和35年撮影)。1軒だけ庭の片隅に風呂小屋を建てたのでしょうか? 風呂の煙突が建っています。


Satomi Koikeさんからのコメント…… 懐かしい、薪で焚く風呂釜の煙突ですね〜
実家でも小学生の頃までこの式のお風呂でしたよ。


火を焚く経験というのは良かったですね。人間が動物から人間に進化したのは火を起こすことを体得したからだと思っています。そんな原始からの歴史を体験しているようで、風呂焚きは大好きなお手伝いでした。