しん散歩(3)……田無郵便局、田無用水流末利用

【しん散歩(3)……田無郵便局、田無用水流末】
 写真上=「青梅街道の南側に移転してきた大正11年頃頃の郵便局」(昭和初期頃撮影)。写真下=同じ場所を2018.4.20に撮影。
 明治5年に田無村に郵便取扱所ができてから、5度目の移転。局長も5代目・三田留吉の時でした。引越しといっても、5回目は青梅街道の北側から南側に移動しただけで、距離的には数十メートルほどのわずかな移動のようでした。三代目局長の下田太郎右衛門は「やまじょう」、四代目局長・小山平太郎は「やまへい」の経営者で共に田無の豪商でした。


三田留吉局長・田無町159番地の田無郵便局中庭にて大正14年撮影。大正10年に郵便局で電話事務を始め、12年には50台の電話が町に入りました。写真右端の女性は電話交換嬢。レシーバーを頭に乗せるため、洋風の髪型にしていました。


青梅街道と所沢街道の分岐点のこの場所は「しん散歩」でも何度も登場していますが、この写真は初めて見ました。三叉路が写っていないのでどこの写真かわかりませんでしたが、この庚申塔には見覚えがありました。「柳沢庚申塔青面金剛」(昭和39年撮影)。


田無にも滝があった! と言っても江戸時代の話。『御嶽菅笠』1834(天保5)年に田丸屋の庭に滝の絵が描かれている。これは、田無用水の滝で、昭和6年に早川歯科医院の洋風なモダンな建物ができ、その時もまだ庭に滝があったと田丸屋酒店の奥さんに聞いた。


これが田丸屋のあとにできた「早川歯科医院」(昭和6年建造,平成18年、撮影:伊藤龍也)の外観です。この建物がマンションに変わるのは2017年6月。


近くに住んでいながら、早川歯科医院の写真を1名も撮っていなかったのは今更ながら悔やまれる。さらに、解体されたのにも気がつかなかっった。写真は「田無用水の滝工事中」(2017.6「あそべる小川」より)。まさに早川歯科医院が解体され更地になってしまい新しいマンションが建てられようとする瞬間です。


今ここには、このようなマンションが建って、田無用水の滝だけではなく、水路跡も完全に消されてしまった。


写真には写っていないが、上の写真の手前のマンションのさらに手前にあるm、マンションの裏に回ってみると、滝の高さを創造できる、高さ3mくらいの崖がある。水路は、このコンクリートの崖の上のブロック塀の向こう側を流れて、写真の奥のあたりで、滝になって落ちていたのであろう。


滝になって落ちた水は、先月、これまで永い間営業されていた店を閉店した和田商店さんの脇の路地をめがけて青梅街道を渡る。


田無用水の龍末は、石神井川に飛び込む前に、現在の調整池あたり一帯にあったらしい田んぼに利用され、もう一仕事していたようなんですね。「田無」は、実は「田有り」だったようですね。


さらにさらに気になることがあるんです。「明治末期から大正初期にかけての街並み」(田無市立中央図書館、昭和54年)という地図には、赤丸の所に「竹製樋」とあるんですね。石神井川の対岸に流末を流して、対岸の田んぼなどにも利用していたのではないか、と推察していますが、田んぼがあったかどうかは、未確認です。だとしたら、すごいですね。徹底的に水を無駄にしないで、できる限りの方法で利用したんですね。


「竹製樋(たけせいとい)」とはどんなものだったのか? 推察するに、あのそうめん流しの樋のようなものだったのではないでしょうか。あるいは、雨樋のようなものなのか? 江戸時代にはすでに竹製雨樋が使われていたようですので。写真は石組下水と竹雨樋(『風俗四季哥仙」"五月雨"鈴木春信画)。石でできた下水に雨樋からの雨水が流れ込んでいる様子が描かれている。江戸はすばらしい!


竹製樋とはこんなものだったのかもしれませんね。写真は「海辺の森を育てる会」より転載。