新川が白子川に繋がった日!

【しん散歩(6)…新川が白子川に繋がった日‼︎】
 1958(昭和33)年9月の台風22号狩野川台風)では西東京市も「新川、田柄川、白子川、石神井川の流域の低地や窪地では、戦後に建てられた民間や都営の住宅で」大打撃を受けました。写真は泉町ビルマ住宅。最深部で2mもの浸水があったようです。(西東京市には白子川の支流が2本流れているため、北側を大泉堀(だいせんぼり)、南を新川と呼んでいます。)


ビルマ住宅」という地名は現在使われていないので、三十数年間住んでいる私にもどのあたりなのか見当がつきませんでした。市報のバックナンバーを眺めていたら、ビルマ住宅の地名が入った地図が出てきました。昭和34年の選挙の時の投票所を示す地図で、「町報ほうや」に一面で掲載されていました。「北多摩郡保谷町全図」(昭和34年)。ちなみに「ビルマ住宅」という地名は、ビルマからの引き揚げ者のために作られた住宅というところからそう呼ばれていたようです。


平成26年に市が発表しているハザードマップですが、ビルマ住宅あたりは最近でも一番濃い青になっています。保谷高校の南あたりは大泉掘へ流す雨水用の下水管ができたという話を何かで読みましたが、その時ビルマ住宅あたりも水害対策はなされたのではないかと思っていましたが、未確認です。さらに最近ビルマ住宅の一角に伏見通り通ったので、いまはさらに地形が変わっているものと思います。


西東京市市内には浅いすり鉢状になっている地形の土地があちこちにあり、大雨の時ははけ口がないこともあり、雨の後はしばらく湿地帯となって、人が住むことのない土地だったようです。石神井川、田柄川、新川、白子川とわずかに4本しかない川も、普段はあまり水が流れていませんが、雨が降るとそこに雨水が集中して流れ込みます。そのような水害予定地?に限って、都営住宅などが集中して建てられたとの話を何かで読んだことがあります。言われてみれば学校などの公共施設も、そのような場所に多いように思えます。かつて小学校や中学校のグランドはあちこちで水浸しになっていました。
 低湿地帯で使いようのない土地は地主も手放しやすく、戦後、都市の人口が急増し、東京都や民間のデベロッパーがそのようなかつては人が住むことのなかったような土地を安く手に入れ次々に家を建てたのが、狩野川台風での大水害を引き起こしたとも言われています。


さて、狩野川台風のときのビルマ住宅から白子川(新川)への排水について『保谷市史通史3』(保谷市史編さん委員会、平成元年)に詳しく書かれていましたので転載します。
 「町議会は九月二十九日、全議員が町内二十数か所に出かけて被災状況を調査し、二十九日には全議員を持って構成する二二号台風災害対策特別委員会の設置を議決、十月一日に開かれた同委員会は、いつまでも水位の下がらないビルマ住宅の浸水を白子川に排除するため延長八〇〇メートルの排水路(白子川支流につながれた下保谷新田の悪水路までの水路)を緊急掘さくしたい、という原田町長の提案を承認するとともに、民生委員などに協力を求めて被災者救援の町民運動を起こすことをきめた。」


ビルマ住宅〜白子川支流間の排水路の掘さくは、町の消防団80名および雇用された労働者40名の手で開始されたが、工事の緊急性にかんがみて原田町長は都知事を通じて自衛隊の災害出動を要請し十月三日の早朝から練馬部隊が来援して、同日の夕刻に至り、ビルマ住宅を浸していた推定二十万トンの濁水は、ようやく白子川に向かって流れだしたのである。さらに翌日には、ひきつづき自衛隊の手を借りて、町域中央部一帯(天神山など)の悪水路の流末を白子川支流に結ぶ排水路の掘削工事を開始し、二日半で完成させた。これらの工事は、いずれも災害救助法に基づく緊急対策として実施されたもので、いわば人海戦術で素掘りの排水路をつくる以上のことはできなかった。原田町長は、これらの排水路を「恒久的施設として残す必要がある」と考え、それを追求していくことになる」。地図=「狩野川台風水害の際の保谷町内の被災住宅地(地名は当時のもの)」


地図の番号はこの表の番号のようです。最短距離で保谷庁舎の北側あたりの新川にながしてしまうと、下流にある③大島住宅、④天神山住宅、⑤下保谷1番住宅も浸水しているので、その上流に流すわけにはいかず、惡水路(民族学博物館のあたり)まで排水路を掘ったのだろうか?
ということで、白子川支流(新川)への排水は、意外にもすぐ近くの保谷庁舎北側あたりではなく、下保谷新田の悪水路(東町・かえで通り民族学博物館あたり)につながれたようだ。


人海戦術でつるはしやスコップで人間が素掘りの水路を掘ったのではないでしょうか? 保谷市役所より東側はかえで通りに向かって自然に下りになっているので、とにかく保谷新道のあたりまで掘れればあとはルートを作るだけで水は流れたのだと思います。


問題はその後のようで、かえで通りの新川は流末が断たれた状態だったようです。天神山や町域中央部一帯の排水がよくなかったのも、新川の流末がかえで通りあたりで断たれていたからのようです。とりあえずこれをつなぎ、練馬区の白子川まで流す計画が、昭和33年7月に予算がついて11月に着工の運びとなっていました。が、その直前の9月26日に台風が来てしまったようです。そんな準備?があったおかげで、台風の数日後には、かえで通りの新川から練馬区・白子川(大泉井頭公園)までの排水路ができたようです。


新川は民族学博物館あたりで流末が消えていました。練馬区・白子川までの自然の流路があったわけではなく、この台風のときに初めて、白子川(大泉井頭公園)に繋がったようです。地図の赤丸部分が、狩野川台風で白子川に繋がった新川排水路で、新・新川ですね。


台風の後はとにかく素掘りで水路を作りましたが、その後、昭和33年コンクリートに改修されました。


新川と白子川をつなぐために掘られた新・新川の現在