堂昌一「下が川だった頃」(「文芸随筆」NO.43、2006年)より転載。

 昭和二十一〜二十二年、焼け野原の銀座。焼け残った、松屋デパートと、四丁目の服部時計店(今の劇場)が進駐軍のPXに、宝塚劇場が「アニーパイル劇場」に、デパート松坂屋の地下が五百人の日本人ダンサーが侍る進駐軍専用のダンスホール、その他キャバレー、ビヤホール、おみやげ物店等々、至れり尽くせりの歓待に、街中はGIで溢れていました。
 この頃有楽町のあたりに、GIのお相手をする“夜の女”達が現れました。彼女達は“パンパン”と呼ばれました。


 戦後で、ゴミの収集や処理までは、なかなか手が廻らず、この界隈の飲食店は、まだ下に水が流れていた、スキヤ橋の堀川に、棄てていました。私は姉のやっておりました“カフェ・バー”を手伝っていました。この夜も閉店後にゴミを棄てに行きました。潮の引いた川底の黒い泥の上に、赤いコートが広がっていました。泥に埋まった横顔は、まだ幼さの残るパンパンでした。私はスキヤ橋交番に、ご注進、築地署の刑事と第一発見者は現場に急行しました。刑事がつぶやきました。
「向こうの岸なら丸の内、水の中なら水上警察!!」進駐軍がらみの事件は日本のお巡りさんには苦手のようでした。



堂昌一:画、「下が川だった頃」(「文芸随筆」NO.43、2006年)


これで、堂昌一の「文芸随筆」に寄稿した文章の転載は終わりですが、読後の印象としては、当時の社会状況などにからめて、もう少し堂自身のことについて書き残して欲しかった。特に岩田専太郎との出会いや親しくお付き合いするようになる経緯、春日章という雅号で描くようになった思いなどを書いて欲しかった。



「春日章 妖艶画集」(グリーンドア文庫、1993年10月)
発売当初の価格は500円だったが、今では1万円近い値段がついている「春日章 妖艶画集」。堂前家にも沢山あったそうだが、来る人、来る人に、欲しいと言われるままにあげているうちに、全部なくなってしまい、いまではこの1冊が残っているだけになってしまったという。



春日章挿絵原画ファイル
春日章の雅号で描かれた原画だけでもあまりにも沢山ありすぎて「春日章 妖艶画集」の原画かどうかは確認していないが、再度訪問する時はしっかり撮影して報告させていただこうと思っている。とりあえず写真は他にも撮影してきたのだが、ブログにアップして良い物かどうか?
 「裏窓」という雑誌やSM関連の雑誌など沢山あったが、孫が見たら困ると思い全てゴミとして処分してしまったという。な、何とももったいない話だ!