池田満寿夫の没になった装丁の話

池田満寿夫BOOKWORK』には装丁が没になった時の事を
「第二番目の装幀依頼は河野多恵子の『幼児狩り』であるはずだった。河野氏とは友人の招待でダービー見物に出かけた時知り合った。まだ芥川賞を受賞する前だったが、富岡の大学の先輩にあたり、一夜三人で新宿の中華料理屋で歓談したことを今でも憶えている。それがきっかけ、彼女の処女出版の装幀を彼女が新潮社へ私を推薦して、O・Kをもらった。しかし結果は二度やり直しをさせられたにもかかわらず、担当者から没にされてしまった。装丁で没になったのはこれが最初で最後であるような気がする。当時、新潮社の装幀担当者を憎んだが、その後、担当者が変わってから、何故か新潮社の単行本・文庫本の装幀が一番多い。」と、多少の腹いせと強気の自己弁護のような文章を残している。


たしかに、池田は1960年代から1970年代にかけては、丸谷才一『低空飛行』(新潮社、昭和52年)など新潮文庫や新潮社の単行本の装丁を沢山手がけている。



単に担当者との相性が悪かっただけなのか、一度離婚し、この頃同棲していた彼女・河野多恵子の紹介という事へのジェラシーだったのか、それにしてもこの没になった装丁を今更見ることは出来ないだろうが、なんとも残念な話である。彼女にぶざまな姿を見せなければならなかった池田の悔しさは、採用されなかったということに輪をかけて悔しかったに違いないことは想像に難くない。


写真下は池田満寿夫が悔し涙を流した『幼児狩り』(新潮社、1962年8月)の採用された装丁で、装丁者は斉藤義重。


斉藤義重については
1904年 東京に生まれる
1933年 古賀春江東郷青児に師事
1936年 二科展に「出立」「アブストラクト」を初出品する
1939年 美術文化協会の創立に参加
1954年 千葉県浦安市に移住
1957年 「今日の新人57年展」に「作品Ⅰ」を出品し、新人賞を受賞画壇での地位を確立する
1960年 グッゲンハイム国際美術展、国内賞及び国際賞受賞
1961年 サンパウロビエンナーレ展、国際絵画賞受賞
1964年 多摩美術大学教授として1973年まで後進の指導にあたる
2001年 死去


「1938(昭和13)年9月の二科展開催中に、吉原治良、峰岸義一らが中心となって、九室に出品の作家のみならず、広く前衛表現に理解ある者たちへもはたらきかけ、同会結成の動きが活発化しました。この後、同年12月3日、正式に発会式を行い、36名の会員のほか、東郷・藤田を顧問とし、翌年春には九室会の第1回展を開くことや、声明文も発表されました。創立会員には、吉原治良、斉藤義重、伊藤久三郎、山口長男らが名を連ねています。(京都国立美術館
とあるように、『幼児狩り』を装丁した当時は、画家としても大いに活躍しており戦後美術において抽象絵画の草分け的存在であり中心的人物でもあった斉藤に一日の長があったようだ。




「……これらのように装幀の始まりは著者からの推薦の場合が多い。今でも半分くらいは知人や友人の著作がしめている。著者の人柄や著作の傾向を良くわきまえている、という点が大切だからだ。友情にむくいるために著者の満足する装幀をしてあげたい、といつも考えている。本はまた友情のあかしでもある。著者に愛情を感じない限り装幀は出来ない。未知の著者に対してもどうようである。」〈前掲〉と、著者と装丁家の関係について言及しているが、池田はかなり恵まれたいい環境にいたようだ。


今では、装丁家と著者が顔を合わせる仕事はむしろ少ない。その事が、装丁の質を落としているという声さえも聞こえてくるほどである。著者も忙しいし、装丁家も多忙な場合が多く時間の調整などが難しいのか、真の意味でのいい装丁を考える編集者が少なくなってしまったのか。いちいちそんなことをやっていたら採算が合わなくなってしまったのか? とにかく池田は、装丁に重心を傾ける事は無くあくまでも友人などの装丁を手がける範囲でしか、装丁をしなかった。