横光利一全集

横光利一『機械』に関する評論などを読んでみたいと思い、文学全集の月報を集めているうちに『機械』が掲載されている全集がたくさん集まってきた。この写真の他にも数点ある。



伴悦『横光利一文学の生成−終わりなき揺動の行跡』(おうふう、平11年)や野中潤『横光利一と敗戦後文学』(笠間書院、2005年)なども購読しており、机の上はにわかに横光利一ブームの様相を呈してきた。


この2冊はこれまでの『機械』評論にあらたな視点を提唱しており、あまりの面白さに今回の購読の目的をわすれてのめり込んで読んでしまった。


『機械』は「改造」昭和5年9月号に発表されたもので、昭和モダニズム運動の中で提唱された「機械主義」の影響をうけたものとおもわれ、横光利一の名を決定的にした代表的作品といってもいいだろう、というのが大方の評価だ。


といってもここで私が文学を論じるわけではない。横光の提唱する機械主義文学論と『機械』の装丁との相関関係をいかにして見つけ出しどのように論証すればいいのか、ともがいているのだ。


『機械』は、従業員としての「私」と、工場の「主人」、先輩の「軽部」、後輩の「屋敷」の4人がアルミニュームのネームプレート製造所を舞台として間関係や感情のやり取りを繰り広げる。人間関係の力学だけではなく命までもがその運命は機械や工場によって影響されるというものだが、私は、このネームプレートと、後の横光作品『時計』の表紙に使われ軽金属(ジュラルミンか?)が、さらに関連しているのではないかと思っている。あるいはどのような関連性があるのかということに興味を持っている。


『機械』の装丁をさらに発展させたのが、『時計』の装丁ということではないか、というのが私の仮説なのだが、かつて論証などということをやったことがないので苦労している。


『機械』には金属の名称や「ネームプレート」「金属板」「地金」などの金属板を意味する言葉が頻発して使用されている。さらにその加工に必要な薬品名もたくさん登場し、横光はこれらの使用法や特徴などをかなり勉強して、その知識を文章の小道具として自由に駆使している。この辺に前衛美術の神髄ともいえる機械(金属)や科学に対する信奉が見受けられる。



既成のものの価値感を再検討し、自然主義文学の束縛からの脱出を試み新たな可能性を求めているときに、大いに支えになったのは「未来派、立体派、表現派、構成派、如実派のある一部、これらはすべて自分は新感覚派に属するものと認めている」との宣言は、新感覚派はこれらのヨーロッパから大変な勢いで移入された前衛美術運動と歩調を合わせているのだという自己確認でもあろう。