装丁:川上澄生、坪田譲治『善太と三平のはなし』(版画荘、昭和13年)を古書価1000円で見つけた。保存状態はあまり良くないが、なかなか手に入らない本なので、この価格は掘り出し物といえるだろう。この本とよく似たタイトルで、小穴隆一:装丁、坪田譲治『善太と三平』という本を確か以前購入したように記憶していたので、同じ内容の本なら、二人の装丁家が同一テーマで競っているようで、比べてみたら面白いかも知れない、そう思って購入した。



装丁:川上澄生坪田譲治善太と三平のはなし』(版画荘、昭和13年


川上澄生については、新潟県の美術館で見たりして版画家としての澄生は知っていましたが、装丁家としての仕事は萩原朔太郎『猫街』(版画荘、昭10年)、 『ゑげれすいろは人物』(濤書房、 昭49年)、 平野威馬雄『南蛮幻想』(濤書房、 昭50年)くらいしか知らなかった。限定本の装丁が多いせいか、今まであまり興味を持たなかったのだろう。



川上澄生:装丁、萩原朔太郎『猫街』(版画荘、昭10年)復刻版。装丁は著者自身の考案だが、画は川上澄生による。



川上澄生『ゑげれすいろは人物』(濤書房、 昭49年)


川上澄生は1895(明治28)年、父英一郎、母小繁の長男として横浜紅葉坂(現・横浜市西区紅葉ヶ丘)に生まれた。澄生が3歳のときに、一家は東京へ移り住む。 初めて木版画を制作したのは木下杢太郎の戯曲『和泉屋染物店』の木版刷りの口絵を見て、1912年(明治45)に見様見真似で制作。1915年(大正4)、澄生が20歳のときに母小繁が亡くなり、一ヶ月間学校を休むほど落胆しているときに、父から「カナダへ行く気はないか」と声をかけられ渡航を決意。22歳でカナダ・ヴィクトリアへと渡る。4ヶ月間後、職を求めてアラスカへ向かい、鮭缶詰工場の人夫として働く。1918年(大正7)、弟和四郎危篤の知らせを受け帰国。帰国後は看板の図案描きなどを経験し、1921年(大正10)栃木県立宇都宮中学校(現宇都宮高等学校)で英語の教鞭をとり、夕方は野球部の指導、夜は好きな版画制作に励む日々を過ごした。澄生は『ゑげれすいろは人物』(1935年)のなかで自らを「へっぽこ先生」と称しているが、生徒たちから髪の毛がハリネズミのようだったので「ハリさん」とあだ名をつけられていた。本格的な木版画の制作は、この頃から始まり、日本創作版画協会展に《黒き猫》が初入選を果たす。


1938年(昭和13)に結婚。翌年、長男誕生。1941年(昭和16)に太平洋戦争が勃発。澄生は軍国主義に嫌気が差して宇都宮中学校を退職し、1945年(昭和20)3月に妻の実家がある北海道へ疎開する。
1949年(昭和24)宇都宮へ戻り、同年栃木県立宇都宮女子高等学校の講師となる。1951年(昭和26)宇都宮女子高等学校の先生と生徒の有志が、版画誌『鈍刀』を刊行。澄生は会長となり、亡くなる直前まで作品の投稿を続ける。
川上作品の主なテーマであったのが、「南蛮」「文明開化」「横浜」など異国情緒漂う風俗、風景を好んで描くようになり、木版の絵本、ガラス絵、泥絵、革絵、焼絵、木工品、書籍の装幀など多岐にわたって創作した。
1972年(昭和47)4月最愛の妻が亡くなり、後を追うように同年9月心筋梗塞で急逝。享年77歳。

これが、もう一冊の『善太と三平』、小穴隆一装丁版。

内容は、版画荘版の続篇に当たるようなもので、内容の重複はなく、新たな話が17篇掲載されていた。



小穴隆一:装丁、坪田譲治善太と三平』(童話春秋社、昭和15年


提供: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』から小穴 隆一(おあな りゅういち)1894年11月28日-1966年4月24日の略歴を転載してみよう。長野県出身の洋画家、随筆家、俳人。俳号は一游亭。
「北海道函館市に生まれ、長野県塩尻市の祖父のもとで育つ。父は洗馬宿(現在の塩尻市洗馬)の旧家である志村家の出だった。
旧制開成中学校中退。太平洋画会研究所にて中村不折に師事。二科展には第1回から出品。のち春陽会に移る。
1919年、瀧井孝作に連れられて東京田端の芥川龍之介邸を訪れ、以後芥川の無二の親友となる。誕生日が芥川の母の命日だったため、芥川から「僕の母の生まれかはりではないかと思ふよ」(小穴隆一『二つの絵』p.127〈中央公論社、1956年〉)と言われていた。
1921年の『夜来の花』以降、芥川の著書の装丁を担当。1922年、親友芥川龍之介をモデルに『白衣』を制作、この作品を二科展に出品して話題となる。同年、芥川は次男が誕生したとき、隆一の名に因んで多加志と命名した。
1923年、脱疽のため右足を足首から切断。以後、義足を使用するようになる。
1926年、芥川が神奈川県鵠沼の旅館東屋の貸別荘「イ-4号」を借りると、隣接する「イ-2号」を借りて住む。「蜃気楼--或は「続海のほとり」--」に出てくる「O君」が小穴のことである。翌年、芥川が田端に引き揚げると、小穴も東京に戻った。
1927年、芥川が子供たちに「小穴隆一を父と思へ。従つて小穴の教訓に従ふべし」との遺書を残して自殺。以後、芥川の遺族と親しく交際。しかし芥川の甥である葛巻義敏とは険悪な関係だった。
1956年、著書『二つの絵』(中央公論社、1956年)の中で芥川が私生児だったという説を発表し、波紋を呼ぶ。その他の著書に『白いたんぽぽ』(日本出版協同、1954年)などがある。このほか、画家としては宮沢賢治坪田譲治の作品に挿絵を描いた。」


装丁は2冊共に個性的で面白く、絵の時代背景にも挿絵家の意向が強く反映されている。昭和初期の内容にもかかわらず、おじいさんの話に明治の頃の話も出てくるとはいえ、川上澄生の絵は挿し絵家好みの時代設定になっているように思える。とはいえ、何れものんびりとした時間の感覚を感じ取ることが出来、癒される思いがする。