「ゲテ本って一体何?」。河原淳「愛書家のための変態辞典」(『別冊太陽─本の美』平凡社、1986年)から解説を引用してみると、「げてそうほん【げて装本】上手物ではない、巧まずして面白いブックデザイン。昭和六年刊の酒井潔『日本歓楽郷案内』は、見返しにセピア色の女の写真が貼ってあり、雁だれ表紙に窓があき、のぞける仕掛けになっている。昭和五年夏に平凡社が、発行した『風俗雑誌』は、表紙の女に蚊帳様の網がかぶせてある。」

とある。 1部だけでもゲテ本と呼ぶのか、一体いつごろからこの言葉が使われ、いつごろからゲテ本があったのか、などなど説明不足で疑問の残る解説だが、要は「奇をてらった装丁」と言うような意味なのだろう。


ゲテ本の本家本元の齊藤昌三自身は
「常道に外れた者を世人は奇人と稱し、常識をもって常道とする。常識は極端に云えば平凡で、水平線以下のものである。書物の装幀に於ても、普通には從来の慣例に依るものに馴らされ、多少斬新なものや、常道を逸したものをゲテ本と云ふ、故に昔の嵯峨本の如きも初めて世に出た頃は、當時の讀書人からは驚異の眼を以て迎えられたことであろうが、未だゲテ本の名稱こそなくも、常道から見ては矢張り一種のゲテ本であろう。」(「げて裝本の話」、『書斎随歩』、書物展望社昭和19年3月)と、人間で云えば奇人の類いのようだ。


ゲテ本創作家としてよく知られているは、何といっても斎藤昌三であろう。数部だけ作るゲテ本造本家はたくさんいるだろうが、いまだかつて500部とか1000部を作り流通させたゲテ本造本家は斎藤昌三以外にはいない。ゲテ本として知られている書物は、筍の皮を使った『西園寺公望』。そして、アルミの板を表紙に綴付けた横光利一『時計』、もう一冊あげると、漆塗りの表紙の谷崎潤一郎春琴抄』などが知られており、なぜか批判のまな板に乗せられることが多い。異論はあろうが私はこれを三大ゲテ本と命名したい。



装丁:齊藤昌三、筍の皮を使った木村毅西園寺公望』(書物展望社昭和8年5月)



装丁:佐野繁次郎、アルミの板を表紙に綴付けた横光利一『時計』(創元社昭和9年12月)



装丁:谷崎潤一郎、漆塗り金蒔絵風の谷崎潤一郎春琴抄』(創元社昭和8年12月)


■ゲテ装本の名付け親は柳田国男
「大量複製の時代にあえて希少価値のものを作ることで対抗するこうした限定本出版は、『少雨荘書物随筆集』として出た自著『書痴の散歩』ではさらに廃物利用を徹底して、古い番傘を外装に用いるまでいたる。やはり読書家である柳田國男はこれを評して『下手装本(げてそうほん)」と呼んだらしいが、齋藤はその評言をかえって喜んだ。その後も、書物展望社版として優れた書物の刊行に励む一方、特異な限定本を作りつづけ、みずから『げて装本の話』(一九四三年)と題したエッセー集まで出している。」(前掲書)と、ゲテ装本の名付け親は柳田国男だ。


■齋藤昌三って誰?
齋藤昌三夫人・千代の「夫・少雨荘を語る」というインタビュー記事によると
「もともと本が好きでしたから、私が嫁いでくるときには、大蔵省の役人で、役所から帰ってくると横浜の有隣堂へアルバイトにいって新刊紹介というのを書いていたのです。それが長年になったので書物の世界に入ったわけですよ。また、私がきてから三日目で大蔵省はやめましたが。……有隣堂の新刊紹介が独立して輸出ばかりの竹村商会ができ、そこで日本の書物の輸出を受持ち、この本はどのくらい送ったらよいか、これはあまり専門的すぎるので数は出ないなどと自分で考えてやっておりました。その時ロスアンゼルスの小野さんと直接交渉しておりましたが、小野さんが東京に来て駿河台で五車堂を始めたので、そこの支配人になった。その後、震災を契機に本格的な執筆生活に入ったわけです。」『限定本』3(東京文献センター、昭和42年)
というのが、若き昌三で、大蔵省の役人だったんですね。


震災後からが『現代日本文学大年表」(改造社昭和6年)、『現代筆禍文献代年表』(粋古堂)など、私が知っている齋藤昌三が始まったわけだ。大正末期から本格的に文筆活動に専念し、雑誌「書痴往来」「愛書趣味」「書物展望」などを主宰。また書物展望社を経営し、番傘や型紙など廃品再利用の奇抜な装丁で、ゲテ装本といわれた書物を120〜130点も世に送り出した。 


紀田純一郎は「三十八年、日露戦争のおり入社したハマの原合名会社。そこに例の安藤・今井という古川柳研究会の猛者がトグロをまいていた。この偶然、さらに取引先正金銀行の小島烏水と知りあったことが彼の将来を決定した。自伝によれば、そこから『脱線』して発禁ものに興味を抱き、ひまさえあれば古本屋まわりに現をぬかすようになった。『明治文芸側面鈔』五冊(大正五)はその第一期の成果だ。ただちに発禁。夕食中に警官が来訪、父親を驚かせた。」(「蔵書一代 齋藤昌三」、『読書人の周辺』実業之日本社、昭和54年)と書いている。


■こだわりの自著自裝、齋藤昌三七部作
齋藤昌三の著書は多いが、中でも愛書家の間で「少雨荘書物七部集」として知られているものがある。
❶『書痴の散歩』(書物展望社昭和7年11月)………古番傘を利用
❷『閑版書国巡礼記』(書物展望社昭和8年12月)…蚊帳を貼る
❸『書淫行状記』(書物展望社昭和10年1月)………漆塗り研ぎ出し布目裝
❹『紙魚供養』(書物展望社昭和11年8月)…………齋藤昌三宛の古封筒を使用
❺『紙魚部隊』(書物展望社昭和13年8月)…………友染の型紙を使用、見返しを型紙で刷る
❻『書斎随歩』(書物展望社昭和19年3月)…………九代目団十郎愛用品古渡更紗張付け
❼『紙魚地獄』(書痴往来社、昭和34年9月)…………麝香の香りのする特殊印刷

齋藤昌三七部作の中からゲテ本として、強い特徴のある本を5冊選んで紹介しよう。

❶『書痴の散歩』



『書痴の散歩』(書物展望社昭和7年11月)


この本は昌三の最初の随筆集であり、書物展望社のゲテ本としては、『恭古随筆』『魯庵随筆紙魚繁昌記』『魯庵随筆読書放浪』に続く、第4番目の廃物利用の装丁になる。思い入れがあるようで、この本については何度も制作の裏話を書いている。


「自分の処女随筆集は『書痴の散歩』と命名し、昌三に因む少雨荘から雨に関係するものといふので、日本固有の番傘の古いものを応用したのであつた。こう並べて来ると益々廃物屋になって了うが、毎度いふ通り趣味的に捜せばわが国には材料が無尽蔵であることを暗示したに過ぎないので、この古傘の如きは製本に際しての加工には多少の苦心も要するが、耐久力に於ては革や布以上であり、湿気虫害にも堪えるもので、偶然にも本書の出来上つて製本所に積み上げられた夜は、数十年来に會てない強雨で、工場も多少の雨漏りを見たのだつたが、本書は能くそれに堪へたので大笑ひしたこともあつた。この見返しは明るい和紙の地色に、銀線の雨を降らして、春雨気分とし、自然に表紙の番傘を説明したのであつた。」(齋藤昌三「少雨荘装幀記」、『書淫行状記』書物展望社昭和10年1月)


昌三だけではなく、書物展望社の本の製本を一手に引き受けた昌三の片腕とも言われる中村重義は、
「私が斎藤先生を知つたのは三十数年前、昭和の初期辻潤先生の紹介で始めてお目にかかり、その晩から飲み歩きが始まった。……そんなある日、先生から《中村君今度自分の随筆『書痴の散歩』を番傘の装幀で作りたいが何かいい案がないか、まだ君の仕事を見た事がないが、君の腕を見せてくれ》と言われ、それは面白い案だとお引き受けして、早速自家用? の番傘をコワして見本を造った、評判がよかつた。先生も大喜び、早速本番となつたが、困つたことには四百本からの古番傘を集めることだ。知人に頼んだり、大雨の朝二人して拾い集めてみたが二十本と集まらない。困つた時は知恵のでるもので、下谷の屑屋の立場(タテバ)へ行つて頼んでみた。気持ちよく引受けてくれたが、但し自分たちで探してみろ、とのことで、二人して屑屋の倉庫へ入ってビックリした。あるわあるわ山のようにあつたが、使えるものは一本もない。一日掛かり四百本程掘出して一安心、とに角一風呂浴びてと白山に行き、前祝いに先ず一杯、あくる朝、僕は先生が持つていると思い、先生は僕が持つていると思っていた。僕は十円位持つていたが、傘一本二銭の割で屑屋に支払つたので、文なし、仕方なく水谷書店へ電話して主人に届けてもらい、支払いを済ませて帰つて、それから半月あまり毎日傘はがし、先生も毎にち手伝いに来て兎に角出来上つた。


思ったより評判がよく、一人で三冊も申込む人もあつて忽ち売り切れ、それでも増刷はしなかつた。ソコが先生のいいところ、扨(さて)それから装幀材料として、どこで探してくるのか、おでんやの女将さんの前掛け、女帯、娘義大夫の肩掛け、蛇の皮、竹の皮、鮭の皮、古新聞など沢山集めてきて、これで装幀研究しておけと言われて、次々とゲテ物製本を六七十種も造ったが、どれも好評だったと思う。これも先生の趣味と努力だったと思う。」(「日本古書通信 斎藤昌三翁追悼特集」第27巻第2号、昭和37年2月15日)と、苦労話をしながら懐かしそうに振り返っている。