昌三没後12年目に坂本篤の補注を加えて発行された亀山巌装丁、坂本篤補注、斎藤昌三『36人の好色家』(温故書屋・坂本篤、昭和48年)には、坂本篤補注「少雨荘桃哉」の項に、昌三がゲテ本にはまるきっかけになった本の話が書いてある(少雨荘桃哉は斎藤昌三の号)。その部分を一部引用させてもらうと、こうだ。



亀山巌:装幀、齋藤昌三『36人の好色家』(有光書房、昭和48年)


「昌三が、珍装幀家といわれる最初の本は、山中笑翁(えむ)の『共古随筆』であろう。山中笑翁は甲府の教会の牧師も勤め、後に出版された『甲府の落葉』なる稿本もあったことより、山梨より蚕の種紙の利用を思いついて、私は、昌三にすすめた。さてとなると甲府近所では思うようなものがなく、結局いも仲間の福島県の館岡春波や富士崎放江の世話で集めてもらった。一枚二銭だったと記憶する。元来この種紙の桝形の中には福、寿などお目出たい漢字が刷ってあるのだが、昭和の初めにはもはや洋数字の番号入りで少々興はそがれたものの、珍奇な表紙として読者から喜こばれた。本の扉には昌三装幀とした。これ以前の昌三の著書では『性的神の三千年』にしろみな平凡な装幀だったが、これが動機となってか、後の昌三が手がけた本には破れ傘の利用とか奇に走ったものが多くなった」
とあり、坂本が、昌三亡き後に、さも自分の手柄話のように書いているところが今一つまゆつばな感じがするが、「少雨荘桃哉」によるとゲテ本の最初は『共古随筆』で、この本の評判に気を良くしてゲテ本作りがはじまったということらしい。



齋藤昌三:装丁、山中笑『恭古随筆』(温故書屋・坂本篤、昭和3年)。表表紙に貼られた題簽の上半分が、半透明になっているのは、「金箔を筆に含ませて、不規則な太線を入れ」た跡のようだ。今は、金箔(金泥のまちがいか?)は剥がれて膠だけが残っているが、虫眼鏡で拡大してみると微かに金箔の跡を確認できる。


『共古随筆』の表紙をよく観察すると、直径1mmほどのキラキラ光る点がたくさん集まって、直径4cmくらいのドーナツ形を形成しているのを見つける事が出来る。これが、蚕が卵を産みつけた跡らしい。見返しに「読者の方に」として刊行者の坂本篤が、「表紙は蠶(*かいこ)の種紙(たねがみ)を利用したものです。茶碗を横にして卵子を軽く磨きますと光沢を生じます。」とある。 



齋藤昌三:装丁、山中笑『恭古随筆』(温故書屋、昭和3年)、光を加減してみると、それぞれの枠の中に卵を産みつけた跡がキラキラと、小さなビーズ玉のように幻想的に光っているのがわかる。


『36人の好色家』の補注「齋藤桃哉」に気になる話が書いてあり、これこそがゲテ本作りの源泉ではないかと思われ、ちょっと脱線するが紹介せずにはいられない。
「 ……この(齋藤桃哉)章の終りに『彼と我』として、怪しげな号の宇佐美不喚楼の名がでてくる。不喚楼も昌三とは親しい友人のひとりだった。昭和の初めころには彼の『女人礼賛』の稿は完成していた。当時彼は東武鉄道の重役であったと聞いていた。その原稿はまともの出版書とはならないので、私は見送った。不喚楼が自ら不幸な紙を招いた戦後に、昌三は森山太郎にすすめて一本にさせた。昌三か森山か、どっちの案だか知らぬが、女陰を目の粗い写真版で刷り、ズロースを穿かせた珍装だった。何部かは本物の陰毛まで貼りつけたゲテもの過ぎたものもあった。」


と、結構蔭では楽しんでいたようだ。お互いに号で呼びあっているのが、どこか秘密倶楽部のようで、いかがわしい感じがする所に、ゲテ本の本流はこちらであったような気がしてならない。本来ゲテ本はここまで行き着くものと密かに期待はしていたが、矢張りあったか。この手の遊びは、快美版『新富町多與里』にも見られるらしいが、不幸にも、いずれの本もまだ目にしてはいない。



快美版『新富町多與里』


齋藤昌三も『共古随筆』について、下記のように書いている。
「山中翁の『恭古随筆』は山国民俗譚だったので、炬燵の老媼談に想到さして、手製のボロ織りに着目したのだったが、その頃の製本技術では折り返しがうまくゆかなかつたので、蚕卵紙の廃紙に変更して、福島県白河在の知人に依頼して蒐めて貰った。廃物利用煮着目したのは、これが初めてであった。表紙の平貼りにした題箋は、木版一色では少し淋しかつたので、一枚毎に金箔を筆に含ませて、不規則な太線を入れて置いた。この書は好評であつたにも拘らず、版元阪本は筆耕料も蚕紙代も全部自分に負担さした上に、著者への稿料も払わなかった。翁に対しても申し訳ないので、自分はとうとう坂本と義絶して了った。」(「少雨荘裝釘記」、「書物展望」昭和9年9月号)。この2冊の本の発行人になっている坂本篤とは何者なのか? というのも気になる。