2歳児救助で一躍時の人になった尾畠春夫さんの好きな歌「坊がつる讃

【今日も「歌いま専科」で歌ってきました! 8月16日編】
 ピアノとハーモニカの伴奏に合わせて、40名ほどが一緒に歌う「歌いま専科」に行ってきました。今日はピアノのジュン先生がお休みでした。それでも3人のハーモニカの伴奏に合わせて、楽しい2時間を過ごしてきました。
 174曲を収録した歌集(500円)の中から、参加者のリクエストでその日歌う歌が決まりますが、今日は、比較的古い歌にリクエストが集中したみたいで、戦後生まれの私には馴染みのない歌もありました。それでも何度かきいているうちに少しづつ歌えるようになってきました。
・次回予定日時…9月6日、9月20日、いずれも木曜日13:45〜
・場所…アスタ市民ホール(田無駅北口前 リビン6F)
・参加費…500円(入会金:500円)入会時に歌集を贈呈
・見学・体験歓迎!


「歌いま専科」の看板やチラシを作りました。これからもこのロゴを使ったものが次々に登場します! こうご期待!



今日歌った歌の中から、
 2歳児救助で一躍時の人になったスーパーボランティア・尾畠春夫さんの好きな歌だという「坊がつる讃歌」。テレビのニュース番組でも一節聞かせてくれた。「歌いま専科」歌集VOL.1にも「坊がつる讃歌」が収録されており、何度かリクエストがあったが、私は全く初耳で歌えませんでした。尾畑春夫さんが好きな歌だと知って、次回は私も歌えるようにしようとユーチューブで何度も聞いた。ミーハーなんだな、俺って!   
 ★「坊がつる讃歌」は、NHKみんなのうた」で1978年6月-7月に放送された。作詞:神尾明正、松本征夫、作曲:竹山仙史、編曲:青木望、歌:芹洋子。原曲「坊がつる賛歌」は、1952年(昭和27年)に大分県竹田市の坊ガツルにある山小屋で九州大学の学生3人によって広島高等師範学校の山岳部第一歌「山男の歌」(「広島高師の山男」とも。作詞は1937年、作曲は1940年)をベースに作られた。



「ふるさとは今もかわらず」は、2011年に新沼謙治自身の故郷である岩手を中心に東北地方を襲った東北地方太平洋沖地震からの復興を願い、「震災で傷ついたふるさとを励ましたい」という思いで新沼自身が作詞・作曲を手掛けた。
 レコーディングにあたっては、若年世代の女声コーラスの声を入れたいと考え知り合いの長崎の音楽教師に編曲を依頼、新沼の母校である大船渡市立第一中学校と長崎市立岩屋中学校、杉並児童合唱団のコーラスを参加させ、ふるさとの風景を思いながら新沼が爽やかに歌い上げている。テレビ等で取り上げられると学校や合唱団から合唱譜の要望が発売元の日本コロムビアへ殺到、同社ホームページ上にて期間限定で楽譜を無料公開したところ3千件以上のダウンロードを記録した。
 ジャケットは新沼がデビュー当初から旧知のグラフィックデザイナー横尾忠則が描き下ろした。 「歌いま専科」でも毎回のようにリクエストがあり、楽譜を配布してくれた危篤な人がいたりで、私もそこそこ歌えるようになってきました。いい歌です!



「この広い野原いっぱい」森山良子。



ただいま鋭意制作中の「歌いま専科」歌集VOL.2から、ジャッキー吉川ブルーコメッツ「ブルーシャトー」、島倉千代子「人生いろいろ」中山大三郎作詞・浜口庫之助作曲/昭和62年、など先取り4曲の歌詞が配られ、試聴ならぬ試し歌いをしました。♪森と泉にかこまれて〜静かに眠る〜ブルーブルーブルーシャトー♪

「田無文化」という映画館があった!

shinju-oonuki2018-08-04

【しん散歩(9)…「田無文化」という映画館があった!】
・写真上=田無文化への路地の入り口、隣は「大和屋金物店」。昭和35年(1960)に撮影。(『田無市史』第4巻民俗編、平成6年)
・写真下=青梅街道沿いの同じ場所を2018.7に撮影。


 「かつて田無には映画館が3館もあり、近郊の映画ファンが集まってくるハイカラな街だった。……『田無文化』は昭和30年開館。田無の老舗酒屋『箱根屋』の子息が青梅街道にあった旧あさひ銀行(現在の『めん勝』の向かい)の路地裏に建てた。市川昆監督の記録映画「東京オリンピック」を当時の小学生は学校の授業の一環として『田無文化』で鑑賞したという。映画産業の斜陽化に伴い、最終的にはポルノ映画館となったが閉館。」(「熱血7号」2009年07月)。
 現在はこの駐車場の看板の手前の路地を入ったところにあるラ・ベルドゥーレ田無というマンションに入居する「たなし中村眼科クリニック」があるあたりが、「田無文化」という映画館ががあったところのようです。


昭和31年に発行された「田無映画同好会会員割引券」。東映、文化、銀映が合同で割引券を発行していたんですね。映画のタイトルが、どれも昭和30年代していていいですね。



一番右の京マチ子山本富士子主演、監督村公三郎「夜の蝶」1957年(昭和32年)、大映映画。銀座で生きる女の戦いの映画のようですね。


右から二番目の「白い夏」は、出演:青山恭二、中原早苗、監督:斎藤武市「白い夏」日活、昭和32年(1957)。


昭和35年頃に田無で撮影された写真(『田無市史』第4巻民俗編、平成6年)。映画ポスターを眺めてみると、明治天皇嵐寛寿郎、小森白:監督「明治大帝と乃木将軍」(新東宝)。 市川雷蔵:主演、田中徳三:監督「浮かれ三度笠」(大映)。 主演:森繁久彌ほか、佐伯幸三:監督「白浪五人男」(東宝)。 川口浩:主演、島耕二:監督「好き好き好き」(大映)などが放映されていたようですね。



田無に映画館が3館あった頃に発行されていた「田無映画外ニュース」NO.57 (昭和38年)から、田無文化のページだけを転載します。下に記載されている「次週予告豪華番組」を見ると銀映と東映は主に邦画を放映し、田無文化は洋画が多かったようですね。手書きの文字が多く、活字の部分は印刷物を切り抜いて版下にしたようで、経費をかけないように涙ぐましい努力がうかがわれて、どこか微笑ましいです。

右上の「太陽のはらわた」は、クロード・ベルナール・オーベール監督「太陽のはらわた」(1963年、ニュー東宝)。


西武新宿線田無駅脇にあった映画館3館の映画ポスター、昭和35年撮影(『田無市史』第4巻民俗編、平成6年)。写真右の田無文化で放映していたのは、主演:アラン・ドロン、監督:ルネ・クレマン太陽がいっぱい」(1960年のフランスと イタリアの合作映画)と、主演・監督:ピエトロ・ジェルミ「刑事」(1959年公開 )の2本立てだったことがわかります。写真中は、大川橋蔵:主演、マキノ雅弘:監督「江戸っ子肌」(東映、1961年)。写真左は、主演:和田浩治、監督:山崎徳次郎「大暴れマドロス野郎」(日活、1961年)。風景写真の背景に写っていた映画看板ですので、あまりよく見えませんが、なんとか話のネタにはなりそうです。



これは一度「しん散歩」の「塚屋商店交差点の緑のおばさん」(昭和37年撮影)でアップされたものの部分アップで再登場です。一番右のポズターが「田無文化」だと思われますが、ついに「ストリップショー」の看板になってしまいました。「最終的にはポルノ映画館となったが閉館(※昭和41年)(「熱血7号」2009年07月)」と、最初の文面にありましたが、昭和37年にはすでにストリップもやっていたようですね。真ん中のポスターは、「愛染かつら」(1962年公開、松竹製作)監督:中村登、主演:岡田茉莉子吉田輝雄、ではないかと思います。「愛染かつら」は1937年から1938年まで雑誌『婦人倶楽部』に連載された川口松太郎の小説を原作にして、何度も映画化されました。


「田無映画街ニュース」のバックナンバーをみたいと思い探しましたが、なかなか見つからず、意外に貴重な資料なのかもしれませんので、「田無映画外ニュース」NO,57( 昭和38年)A4二つ折り4Pの中面もアップします。このデータもどこから入手したのか覚えておりません。広告を出している店がまだあれば、そこでバックナンバー持っていないかな?


ちなみに、表面はこんな感じ。


最初にアップした映画館入り口の看板が、なんという映画なのか特定しようとした。右側の映画は「三悪人」と読める。これは監督:ジョン・フォード三悪人』(昭和元年〈1926〉)にまちがいないだろう。とおもったが……。


もうひとつ「三悪人」を含むタイトルがあった。主演:三船敏郎、監督:黒澤明隠し砦の三悪人」(昭和33年〈1958〉、東宝スコープ)だ。最初の写真の撮影年が昭和35年なので、どちらも上映する可能性はある。


雪姫役の上原美佐のこの姿は時代劇ではイェローカードクラスの色っぽさですね。水戸黄門由美かおるの入浴シーンなみですね。


2本だけかと思っていたら、なんと3本目がでてきました。山本富士子市川雷蔵勝新太郎:出演、井上梅次:監督、「女と三悪人」大映京都、昭和37年(1962)年だ。ただこれは、昭和35年以降なので残念ながら、上映はありえないようです。


最初の写真の左側の看板には「草」という文字が確認できます。が、私が知っているのは、「浮草」くらいしかありません。ググってみると、京マチ子中村鴈治郎:出演、小津安二郎:監督『浮草』(昭和34年〈1959〉、大映)がヒットしました。これは、白黒写真の撮影年より、1年前に封切られたようなので、この映画に間違いなさそうですね。


つまり「浮草」と「隠し砦の三悪人」が上映されていたのではないでしょうか?どちらもほぼ封切り日に近いので、遠くから観にくる人も多かったのではないかと思います。


私も授業で学校から「東京オリンピック」の映画を観に行きました。それはこの映画だったように記憶しています。


他にもこんなオリンピック映画もあったようです。


田無文化への路地の向かい側にいまも営業している「百年の伝統が生んだ味 割烹坂平」がある。田無文化があった頃は、映画を見て、坂平でうなぎを食べながらビールを飲んで暑気払いをした人もいたんだろうなぁ〜…! 帰りには隣の廣田豆腐店で豆腐を購入し、家に帰って、冷奴でもう一杯、な〜んてね…。


坂平の隣にあった「廣田豆腐店」。


広田豆腐店から西へ4軒ほど隣には、野崎屋酒店がある(2018.2撮影)。「酒造の本場新潟で生まれ、酒造りを修行した野崎嘉一郎さんは柳窪東久留米市)の酒蔵で働き、明治末期に田無へ店を出した。……これが現在の店(本町2-4-4)である。」(『田無のむかし話その3』より)。


田無駅前のリビンができるまではこの野崎屋酒店の脇が、メインストリートでもある「駅前通り商店街」の北側の出入り口でした、1990(平成2)年撮影(『田無市史』第4巻民俗編、平成6年)。


現在の駅前通商店街(2018年2月撮影)。わずか50mほどがむかしの面影を残しています。ちょっと寂しげですが、むかしは賑やかだったんだよな、なんて思い起こさせてくれる懐かしい路地で、田無に行ったらなるだけここを通るようにしています。


野崎屋酒店の脇の路地を南に進むとすぐに、田無銀映という映画館がありました。


田無銀映は、北から南の駅方面に向かって進むとちょうどこんな感じで路地の右側に見えたはずです。昭和35年頃に撮影。(『写真で見るわがまち西東京』郷土出版社、2015年)


振り返るように、駅の方から北に向かって吟詠の看板を眺めてみると、なんと「007ゴールド・フィンガー」。写真は田無銀映(昭和41年頃撮影)。(『写真で見るわがまち西東京』郷土出版社、2015年)


市川崑監督の映画・東京オリンピック(1965年)と、同じ年の公開だったんですね。私が007を見たのは田舎だったのでもう少し後だったかもしれません。18歳で単独上京した頃だったかもしれません。
もう一本は、監督スタンリー・クレイマー「おかしなおかしな世界」(1963)。この2本立てだとしたらかなりの豪華版ですね。今上映していたら、絶対に行っちゃいます。


そのまま田無駅の方に進むと、通りの左側、田無銀映のはす向かいには田無東映がありました。写真は昭和41年に撮影。(『写真で見るわがまち西東京』郷土出版社、2015年)


看板の映画「太陽に突っ走れ」(昭和41年〈1966〉、東映)は、作曲家遠藤実の自伝「太陽も笑っている」を、「カミカゼ野郎 真昼の決斗」の池田雄一が脚色、「地獄の野良犬」の鷹森立一が監督した歌謡ドラマ。出演:千葉真一、十朱幸代 他。


もう1本は「おはなはん第二部」(1966年、松竹)、NHKテレビで放映中の小野田勇、林謙一の原作を、「おはなはん」の山田洋次や、元持栄美、桜井義久、吉田剛が脚色し、前作同様野村芳太郎が監督した続編。


三本立てだったのか。三本目は「汐風の中のふたり」(1966年、松竹)、「雨の中の二人」でコンビの桜井秀雄と熊谷勲、「ウナ・セラ・ディ・東京」の山根優一郎が共同でシナリオを執筆、桜井秀雄が監督した青春もの。出演:竹脇無我 、田代美代子。



最後に紹介するのは、田無東映の前身、田無で最初の映画館「田無館」(昭和3年開館)、昭和初期に撮影。「田無に最初にできた映画館は『田無館』。北口再開発以前、今のアスタ北端にあった。佐々病院の初代佐々正達氏が有志から出資を募って建設、昭和3年に開館、その後酒井平太郎氏が買い取って「田無東映」となる。緞帳が上下する劇場で、戦前は休日や盆暮れ正月にだけ上映していたが戦後になって常時上映するようになったという。閉館は昭和41年8月。その後、イトーヨーカ堂が建設された。」(「田無にあったニューシネマパラダイス」[『熱血!田無新聞』7号」より)。


「日本の映画産業が最も潤ったのは昭和三十三年。遠い昔だ。キネマ旬報の資料によれば、その年の興行収入成績ベスト5は、
1.忠臣蔵大映
2.陽のあたる坂道(日活)
3.紅のつばさ(日活)
4.忠臣蔵東宝
5.隠し砦の三悪人、となっている。」 (「田無にあったニューシネマパラダイス」[『熱血!田無新聞』7号」より)。写真は『忠臣蔵大映創立18年を記念して製作され]、長谷川一夫市川雷蔵勝新太郎京マチ子山本富士子若尾文子中村玉緒ら当時の大映の俳優が総出演したオールスターキャストの作品であった。監督は渡辺邦男吉良上野介には、民藝の名優滝沢修を起用。

青面金剛庚申塔の囲いもブロック塀をやめた!

【しん散歩(8)…西東京市向台の青面金剛庚申塔の囲いもブロック塀をやめた!】
・写真上=サイクリングロード(向台)脇の青面金剛庚申塔馬頭観音、昭和51年頃に撮影。
・写真下=同じ場所を2018.7に撮影。
 



写真右の青面金剛庚申塔は、元禄14年(1810)に造立されたもので、もと石川島播磨重工工場の正面にありましたが、昭和44年頃にこの場所に移動されました。
 写真左側の馬頭観世音石仏(天保4年〈1833〉造立)も石川島播磨重工工場前に建てられていたもので、江戸道の路傍にありました。かつて江戸道に荷駄をつけたたくさんの馬が往来して田無宿が繁盛していた時代のものです。



 西東京市には青面金剛庚申塔が21基(旧田無市に12基、旧保谷市に9基)確認されています。案外知らないとおもっている人が多いようですが、言われてみれば、あれか、と思い浮かべることができるのではないかと思います。


保谷市青面金剛庚申塔を探してみようと資料を漁ってみたが、これが案外難しい。使用した資料は昭和46年のもので住所が西東京市になる前の保谷市の住所であることや、おおよその見当をつけてその場所に行っても、道路の拡張などでどこかに移動してしまっているからだ。『保谷の石仏と石塔一』の表を見ると、青梅街道沿いはわかるが、表に記載されているような企業はない。それでも11基のうちの9基までは見つけることができた。


滝島 俊さんよりFBに次のようなコメントがありました。 「上柳沢の青面金剛庚申塔は青梅街道の拡幅(ガスタンク辺りは南側;下り路線分が拡幅された)により、元あった場所から今の場所に移動されてますね。(昭和45年2月) 今の下り路線にあった住宅やお店はこぞって退去・転居になってますね。」と。


それでは、現在、上柳沢橋の北東部にあるのが、青梅街道沿いの河村工業脇にあった青面金剛庚申塔だったんですね。表の2にあるのは、撮影した時は、鉄格子のような窓から撮影したので気がつきませんでしたが、脇に小さな青面金剛庚申塔があるみたいですね。


【盗まれてしまったのか?】先ほどアップした保谷市の「青面金剛塔一覧」に頃歳されている「2」の青面金剛像を撮影しようと行ってみたら、なんと無い! 盗まれてしまったのか? 祠の裏にちょうど青面金剛像の背丈くらいの穴が空いていた(写真左下)。これって事件か?


【これが無くなってしまった青面金剛庚申塔】無くなってしまったのは写真左下の小さなものです。写真は昭和45年にこの場所に移築されてきた時に撮影したものです。


とりあえず話をもとに戻します。旧保谷市内の青面金剛庚申像で一番知られているのは、榎通り(深大寺街道)と如意輪寺に向かう道に挟まれた、泉町2丁目の青面金剛庚申像であろう。当所は江戸時代の高札場があったようで、上保谷村の中心だったようです。造立年や作者がわかっている例は少ないようで、「石工は八丁堀松屋町いづみや三郎左衛門作(正徳4年)。一臂に旗らしきものを持ち、合唱と合わせて三臂、しかも丸彫り。周辺地域に類例を見ない青面金剛像である。いずみやの三郎左衛門は若年ゆえ絵図にならってノミをふるったが、稚拙になったものの、気迫は充分に出た。……そんなふうに想像したくなる像容である。」(『保谷の石像と石仏一』)、と記されている。2鶏、三猿を刻んだ大石の上に一鬼を踏んまえた合掌六手の青面金剛、高さ80cmの石の彫刻でありますが、右手2本、左手1本が欠落しているのが残念です。腕のあたりに彩色の跡が見えるようですが、もとは、色が付いていたのかもしれませんね。

かつて保谷に寺子屋があった!

【しん散歩(54)……保谷寺子屋があった!】
写真左=宝晃院の寺子屋師匠逆修墓塔(西東京市住吉町、2018.7撮影)。
写真右=如意輪寺の寺子屋師匠墓塔(西東京市泉町、2018.7撮影)。
 旧田無市には、かつて総持寺や閻魔堂などに寺子屋があったことが知られているが、旧保谷市には寺子屋に関する資料が少なく、あまり教育に熱心ではなかったのではないかと言われていた。そん中、寺子屋が存在したことを示すのではないかといわれる石塔が2基あるというので探してみた。




 住吉町・宝晃院の墓地中に、江戸末期に建てられたと思われる「法印宥善」という社僧の五輪塔型「寺子屋師匠墓塔」があった。
基壇には「筆子連盟」として上保谷全域から46名、女9名合計55名の筆子(手習いの弟子、読み書きを習う子ども)の名前が刻印されている。
 地輪( 五輪塔の最下層)正面には「法印宥善」と、左側面には「仮名恵麟 自建置之」と刻印されており、この塔は生前に塔を建てる逆修塔(生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をすること。そのために建てる石塔婆)である。
 「筆子の個々を見ると住吉町中村貞一氏の祖父『上宿中邑安五郎』があり、他の筆子直系の孫も何人かが生存されているため、これに対照すると恵麟坊法印宥善の逆修塔は明治維新をすぐそこにひかえた幕末に建てられたものと推定される。維新政府が成立すると学制改革があって小学校が置かれるわけだが、宥善の寺子屋はこれによって廃校とされたのであろう。のみならず、宝晃院は神社の別当寺から分離・廃止される運命にあった。彼は生前に建てた菩提に入寂(寂滅にはいること。特に、 僧侶が死ぬこと)の紀年を刻さぬうち、本山の指令によって他の末寺に普山したものか、あるいは環俗したものと想像される。なおこの宥善は明治以前まで社僧であり、筆小屋の師匠を兼ねたのは、こうした僧侶や神主が、近世にあっては村落の知的な指導的階層であったためである。」(『保谷市史別冊似保谷の石仏と石塔二』より)。



 写真右のもう一つの寺子屋の存在を示す墓塔である、泉町・如意輪寺にある「寺子屋師匠墓塔」は、天保9年81838)年ころに、弟子たちによって造立された寺子屋師匠の墓石。「現名名古屋瑞範氏の墓地に立つ。妻女と並んで戒名が彫られるが、俗名がない。『施主名古屋富士松」とあって、富士松は師匠の長男であったろうから、師匠の姓は名古屋と考えられる。上部基段に『筆子中』とあり、四面にわたって上下保谷村、上保谷新田、落合村など男子の弟子66人の姓名が彫られている。」(『保谷市史別冊似保谷の石仏と石塔二』より)。と、二つの石塔が、かつて保谷寺子屋があったことを示しているが、これ以上の詳細を示す資料が少なく、史実として認めるには今ひとつ説得力に欠けているようです。


え〜っ、寺子屋がこの2つ以外にもう一つあったって本当? 「寺子屋は江戸中期以後、庶民に読み書き算盤を教える教育機関であった。村役人をはじめ武士・僧侶・神主・里山伏・医者などが師匠となり、ほぼ数十人を単位にして開設され、最盛期には全国で約一万におよんだといい、この周辺では化政期以後幕末に多く、宝晃院・下保谷の寮墓地内にあった大像坊が寺子屋をひらいていた」(『保谷の石仏と石塔二』)。って書かれているが、これって、宝晃院にある「寺子屋師匠逆襲墓塔」の話とは別の寺子屋なのだろうか? 


寮墓地とは西東京市栄町1丁目にある共同墓地のことです。「墓地内にもと大象坊があり、験者(法華行者)あがりが昭和初期まで住していた」(『保谷強度資料』昭和10年)。この大象坊は村人から通称「寮」と呼ばれており、寮といえばここの墓地を指していたので、この墓地は寮墓地と呼ばれている。


これが現在の寮墓地ですが、この墓地の一角に大象坊があったのだろうか。


これは明治13年の地図です。赤丸のところは保谷厚生病院の西側の墓地です。三角地帯のところが寮墓地ですが、黒い四角の建物の記号がありますが、これが寮と呼ばれていた大象坊で、寺子屋だった建物ではないかと思われます。

尉殿神社裏の5つの小祠

【しん散歩(7)……尉殿神社裏の5つの小祠】
写真左=西東京市・尉殿神社の裏に並ぶ合祀五社の小祠(昭和57年撮影)撮影。
写真下=同じ場所を2018(平成30年7月)に撮影。


だいぶ前に尉殿神社の裏を散策していた時に、この5つの小さな祠はなんだろうか、と気になっていました。昨日、散歩中に見てなんだろうという気持ちはさらに高まり、とうとう図書館に行って調べてみました。なんと、この祠には旧保谷市の大変な歴史が秘められていることを知って驚きました。
ちょっと長くなるが引用します。「明治政府は発足の基本政策の一つとして、古代の祭政一致を司った神祇官を復活して、神仏分離を強行した。明治憲法発布後は、その思想の中軸とした天皇中心の国是を国民に教化する格好の手段として、全国の神社を皇室の先祖神という伊勢神宮天照大神の下に統一する国家神道の確立を目指した。長い間、権力とは無縁の場で多彩に展開した庶民信仰の神々は、政府の一方的な選択によって統廃合のやむなきに至るのである。
保谷市内域内にあった各神社も、その政策の影響を免れなかった。結果的には下柳沢にあった神明社が、村社となった尉殿神社本殿本殿に合祀され、廢神の対象となった東伏見二丁目の榛名権現(現氷川神社境内末社)の合祀問題は……明治末年に保谷村を引き裂く一大騒擾を起こすのである。その他、各小学校にあった神社の五社(正確には四社か)が、本殿右後方へ置かれたコンクリート造りの小祠となって境内末社に合祀されたのである。これらの小祠は小字の地を離れてしまえば伝統的な祭祀や講が行われなくなるから、合祀といっても実質は廃神なのである。
 第六天社…旧大門(泉町2丁目)
 第六天社…旧上宿内宮山(現田無市谷戸町1丁目)
 稲荷神社…旧苗木山(中町6丁目)
 稲荷神社…旧立野(本町4丁目)
 稲荷神社…旧所在不詳
いずれも各字の血縁・地縁的な氏神か、産土神であったものと思われ、それなりの祭祀と信仰があったはずであるが、いま五社ともその祠の中には神体も見当たらず、形骸化した五つのコンクリートの小祠として、わずかに各字の庶民信仰を伝えるのみである」(『保谷の石仏と石塔二』保谷市役所、昭和59年6月)。



尉殿神社本殿正面に、由緒書きのようなものがあった。「境内社五社」とあるが、詳細については書かれておらず、どこにあった神社を合祀したのかについてはわからない。

「西東京かるた」8枚目完成!

私が担当した、消しゴムハンコで作る「西東京かるた」8枚目「く」…空襲の歴史を刻む平和のリング  が、完成しました。


「い」命支えた用水路いまは暗渠の遊歩道
「く」空襲の歴史を刻む平和のリング



「み」みんなの安全タヌキが見守る北原交差点
「ほ」ほっこりと銭湯につかって語り合い



「へ」碧山の夏を彩るカブトムシ
「お」おっぱいみたいなガスタンク



「や」柳がないのにどーして柳沢
「よ」400年墓守しているヤブツバキ

新川が白子川に繋がった日!

【しん散歩(6)…新川が白子川に繋がった日‼︎】
 1958(昭和33)年9月の台風22号狩野川台風)では西東京市も「新川、田柄川、白子川、石神井川の流域の低地や窪地では、戦後に建てられた民間や都営の住宅で」大打撃を受けました。写真は泉町ビルマ住宅。最深部で2mもの浸水があったようです。(西東京市には白子川の支流が2本流れているため、北側を大泉堀(だいせんぼり)、南を新川と呼んでいます。)


ビルマ住宅」という地名は現在使われていないので、三十数年間住んでいる私にもどのあたりなのか見当がつきませんでした。市報のバックナンバーを眺めていたら、ビルマ住宅の地名が入った地図が出てきました。昭和34年の選挙の時の投票所を示す地図で、「町報ほうや」に一面で掲載されていました。「北多摩郡保谷町全図」(昭和34年)。ちなみに「ビルマ住宅」という地名は、ビルマからの引き揚げ者のために作られた住宅というところからそう呼ばれていたようです。


平成26年に市が発表しているハザードマップですが、ビルマ住宅あたりは最近でも一番濃い青になっています。保谷高校の南あたりは大泉掘へ流す雨水用の下水管ができたという話を何かで読みましたが、その時ビルマ住宅あたりも水害対策はなされたのではないかと思っていましたが、未確認です。さらに最近ビルマ住宅の一角に伏見通り通ったので、いまはさらに地形が変わっているものと思います。


西東京市市内には浅いすり鉢状になっている地形の土地があちこちにあり、大雨の時ははけ口がないこともあり、雨の後はしばらく湿地帯となって、人が住むことのない土地だったようです。石神井川、田柄川、新川、白子川とわずかに4本しかない川も、普段はあまり水が流れていませんが、雨が降るとそこに雨水が集中して流れ込みます。そのような水害予定地?に限って、都営住宅などが集中して建てられたとの話を何かで読んだことがあります。言われてみれば学校などの公共施設も、そのような場所に多いように思えます。かつて小学校や中学校のグランドはあちこちで水浸しになっていました。
 低湿地帯で使いようのない土地は地主も手放しやすく、戦後、都市の人口が急増し、東京都や民間のデベロッパーがそのようなかつては人が住むことのなかったような土地を安く手に入れ次々に家を建てたのが、狩野川台風での大水害を引き起こしたとも言われています。


さて、狩野川台風のときのビルマ住宅から白子川(新川)への排水について『保谷市史通史3』(保谷市史編さん委員会、平成元年)に詳しく書かれていましたので転載します。
 「町議会は九月二十九日、全議員が町内二十数か所に出かけて被災状況を調査し、二十九日には全議員を持って構成する二二号台風災害対策特別委員会の設置を議決、十月一日に開かれた同委員会は、いつまでも水位の下がらないビルマ住宅の浸水を白子川に排除するため延長八〇〇メートルの排水路(白子川支流につながれた下保谷新田の悪水路までの水路)を緊急掘さくしたい、という原田町長の提案を承認するとともに、民生委員などに協力を求めて被災者救援の町民運動を起こすことをきめた。」


ビルマ住宅〜白子川支流間の排水路の掘さくは、町の消防団80名および雇用された労働者40名の手で開始されたが、工事の緊急性にかんがみて原田町長は都知事を通じて自衛隊の災害出動を要請し十月三日の早朝から練馬部隊が来援して、同日の夕刻に至り、ビルマ住宅を浸していた推定二十万トンの濁水は、ようやく白子川に向かって流れだしたのである。さらに翌日には、ひきつづき自衛隊の手を借りて、町域中央部一帯(天神山など)の悪水路の流末を白子川支流に結ぶ排水路の掘削工事を開始し、二日半で完成させた。これらの工事は、いずれも災害救助法に基づく緊急対策として実施されたもので、いわば人海戦術で素掘りの排水路をつくる以上のことはできなかった。原田町長は、これらの排水路を「恒久的施設として残す必要がある」と考え、それを追求していくことになる」。地図=「狩野川台風水害の際の保谷町内の被災住宅地(地名は当時のもの)」


地図の番号はこの表の番号のようです。最短距離で保谷庁舎の北側あたりの新川にながしてしまうと、下流にある③大島住宅、④天神山住宅、⑤下保谷1番住宅も浸水しているので、その上流に流すわけにはいかず、惡水路(民族学博物館のあたり)まで排水路を掘ったのだろうか?
ということで、白子川支流(新川)への排水は、意外にもすぐ近くの保谷庁舎北側あたりではなく、下保谷新田の悪水路(東町・かえで通り民族学博物館あたり)につながれたようだ。


人海戦術でつるはしやスコップで人間が素掘りの水路を掘ったのではないでしょうか? 保谷市役所より東側はかえで通りに向かって自然に下りになっているので、とにかく保谷新道のあたりまで掘れればあとはルートを作るだけで水は流れたのだと思います。


問題はその後のようで、かえで通りの新川は流末が断たれた状態だったようです。天神山や町域中央部一帯の排水がよくなかったのも、新川の流末がかえで通りあたりで断たれていたからのようです。とりあえずこれをつなぎ、練馬区の白子川まで流す計画が、昭和33年7月に予算がついて11月に着工の運びとなっていました。が、その直前の9月26日に台風が来てしまったようです。そんな準備?があったおかげで、台風の数日後には、かえで通りの新川から練馬区・白子川(大泉井頭公園)までの排水路ができたようです。


新川は民族学博物館あたりで流末が消えていました。練馬区・白子川までの自然の流路があったわけではなく、この台風のときに初めて、白子川(大泉井頭公園)に繋がったようです。地図の赤丸部分が、狩野川台風で白子川に繋がった新川排水路で、新・新川ですね。


台風の後はとにかく素掘りで水路を作りましたが、その後、昭和33年コンクリートに改修されました。


新川と白子川をつなぐために掘られた新・新川の現在