消しゴムはんこ教室のお知らせ

消しゴムはんこ教室のお知らせ【食とアトリエ縁屋(えにしや)】
▶️今回のテーマは消しゴムはんこで「暑中見舞」♪
❤初心者歓迎、1回のみの体験参加OK❤初回は手ぶらでご参加ください。道具は全てご用意いたします。
◆日時:6月24日(日)14:30〜17:30
◆場所:西東京市富士町交差点・縁屋(TEL.042-467-5220)
 西武新宿線東伏見駅から徒歩8分くらい
 http://nishitokyo.shop-info.com/enishiya339/
◆講師:大貫伸樹
◆費用:初回1,300円(道具・ゴム版代含む)
◆2回目からは 1,000円(道具・ゴム版は各自用意する)
◉お申し込みは縁屋に電話で、または当FBのコメントでお名前をおしらせください。お気軽にお問い合わせ下さい(^^)


暑中お見舞いの習慣がだんだん薄れてきてしまいましたが、1年で最も暑い時期に送ることで、 相手の安否、健康を気にかける慣習です。この夏は消しゴムはんこで絵葉書を作って、親しい友に、疎遠になってしまった故郷の友などに御機嫌を伺ってみませんか! 暑中お見舞いを送るのは2018年は7月20日〜8月6日です。小暑(7月7日)〜立秋の前日(8月6日)までという説もあります。8月7日からは残暑見舞いですね。

しん散歩(5)……新川の第三支流を探せ!

【しん散歩(5)……新川の第三支流を探せ!】
 練馬区では白子川と呼ばれるが、西東京市では新川と呼ぶ、今は暗渠となってしまっている川(地図株の青線)がある。新川には、谷戸小学校校庭が源流点と言われている新川北支流と、東大農場内の南東部あたりが源流点ではないかと思われる新川南支流との二本の支流があり、如意輪寺の南西のところで合流する。(地図の下の赤丸部分が合流点)。



 今回は、さらにA地点「せせらぎ公園」を源流点として、B地点、C地点を通り、横山道との交差点の駒止橋があったD地点で新川に合流する新川の第三支流があったのではないかという仮説を立て、それを立証するための調査……というほどでもないが、散歩がてら現地を訪ねてみた(地図、A地点のせせらぎ公園〜B地点まで)。


 問題は、B地点より下流ひばりヶ丘中学校があるところを通って駒止橋があったD地点に流れていたものと推察するのだが、中学校ができてしまい流れの痕跡は全く無くなってしまったことだ。中学校あたりから駒止橋や如意輪寺あたりは、標高が低く、地形を眺めてきた印象からは、第三支流はこの辺を流れて存在したのではないかという印象が強かった。B地点からまっすぐ南下して新川北支流と合流するルートも考えられないではないが、水路を掘るなどの人工的な手が加えられなければ地形的には難しそうです。



せせらぎ公園脇にある調整池。この辺に源流点があったのではないかと思っています。



自転車がやっと通れるくらいの路地になっている。草があまり生えていないところを見ると、案外この路地を利用している人がいるのかも知れません。



車の通る道に出ると、水路跡は一旦寸断されます。



寸断された地点から、20〜30mほど道路に沿って西の谷戸新道の方向に向かいます。門の脇の緑の茂みが、用水路跡の続きです。一見民家の庭に入っていくように見えますが、私有地ではないようです。でも門の家の家主さんが出てきて、ずっと睨んでいました。私有地でしたら、通報されそうな勢いでした。



茂みが深いので、背中から後ずさりするようにバックで藪の中に入り込みました。紫陽花の木が茂っていました。



だいぶ開けてきましたが、それでも結構草深いです。



やっと谷戸本通り(地図のAとBの中間地点)に出ました。水路は再度寸断されます。



ひばりヶ丘駅方面(北)に向かって20〜30mくらい移動したところに、続きがありました。



寸断地点の赤白の柵を振り返りながら、東に向かって進みます。コンクリートの蓋暗渠になっているので、気持ちのいい散歩道のようです。



狭いけれどまっすぐです。



くねくねと曲がって昔の小川のような面影?を感じます。



だいぶ出口に近くなってきました。左のオレンジ色の家は、谷戸住吉通り(ひばりヶ丘中学校の西側の道)からも見えます。



やっと出口(地図のB地点)にたどり着きました。ここで水路跡は消えてしまいます。これからが、今回のテーマでもある「新川第三支流を探せ!」の本題です。推理しながらなんとか新川に合流したいものです。



谷戸住吉通りに出た水路跡は、道路に沿って南下して、住吉第四公園あたりまで行きます。




住吉第四公園(写真右の緑と柵に囲まれている部分)のあたりからは手前の南に向かって、やや登り勾配になっているので、ここで一旦ストップして(写真左の溝)、公園の北側を東に向かうっているのではないかと思います。
 水路の痕跡は、住吉第四公園の西側で消えてしまいましたので、この先は資料などを頼りに推察するしかありません。ここからの選択肢は、谷戸住吉通りをまっすぐに南下し、ひばりヶ丘中学校の門の脇を通って新川北支流にたどり着いたのか、あるいは、住吉第四公園の西側の路地を東に向かい、昭和32年の地図に掲載されているひばりヶ丘中学校のグランドを縦断している道に沿って、横山通にあった駒止橋のあたりに流れ着いたのかの2つのルートが考えられます。




この地図はひばりヶ丘中学校ができる前の昭和32年に発行された地図です。小さな赤丸の中は横山道(フラワー通り)の駒止橋があったところで、新川北支流が流れています。ここから北に向かって細い道が記されていますが、現在も駒止め橋から北へ80mほど残されています。この道に沿ってが、ひばりヶ丘中学のグランドを縦断し、駒止橋に至る水路跡があったのではないかと推察しています。



標高が示されている地図を見つけたので、わかりやすいように標高の数字を赤丸で囲った。そして、2本のルートピンクの線E-Fと、黄緑の線E-Dとが、下の青い線・新川北支流にたどり着く可能性を確認するのがこの地図をアップした目的です。
 黄緑の線はE地点から東に進んだ角が56.1、校舎の北側が57.0で、だんだんと高くなっている。E地点の標高がわからないのが、水色の線が上に切れるところが56.1なのでそれよりも下流ということで、56.0位ではないか思います。つまり緑色のルートで水を流すとなれば、1mほどの深さの溝を掘る必要があるので、このルートの可能性は低い。



平成26年ハザードマップを見ても、ひばりヶ丘中学校のグランド辺りは、深水予想地に入っていない。ところが谷戸住吉通りには、住吉第四公園からひばりヶ丘中学校の門脇までの100mほど以外は赤線・浸水道路になっているが、この100mの区間が標高には現れない程度とはいえ、やや高くなっている。つまり浸水予定地に示されていない部分はやや標高が高いということです。このままではすんなりとは水路を通してはくれない。

次回、「しん散歩…続・新川の第三支流を探せ!」に続く

しん散歩(4)…西武新宿行・東伏見公園北を走る!

shinju-oonuki2018-05-26

【しん散歩(4)……西武新宿行・東伏見公園北側を走る!】
 写真上=西武新宿行、千駄山付近を走るクハ1442(昭和40年頃)。写真下=上と同じ場所を走る30000系、2018.5に撮影。



 白黒写真の場所の特定が難しく、東伏見駅〜西武柳沢駅にある古いお店に飛び込んで、この風景がどこなのかを尋ねましたが、ほとんど異口同音に「こんなカーブはない!」という返事でした。



地図で見てもさほど曲がっているようには見えないので、撮影が終わってから、まさかこの場所がこんな風に写るとは驚きでした。地図は昭和32年の千駄山付近です。赤丸 A地点から、赤丸C地点までがカラー写真に写っている範囲です。



ヒントになったのは西東京市保谷町の駄菓子屋・ヤギサワベース・中村さんの「撮影スポットなら、他にも誰かが撮影しているはずだ!」という言葉でした。
 帰宅してから、パソコンで同じような写真を数点探し出し、説明文を読んで、もう一度撮影現場に行き納得した。「500mm以上の望遠レンズでなければ撮影できない」と書いてあったのが大きなヒントになった。




この写真と地図を見比べてみると、かなりの距離が圧縮されて近づいて見えているのがわかる。撮影地点は赤丸A地点で、線路南側に2番目の鳥居がある地点の線路北側あたり。最初のカラー写真の左下にある三角の白は、地図の赤丸B地点、東伏見公園の東側にある、線路に向かって突き当たる道路の角だ。写真左の16.7と書いてある白い標識は、小さなトンネルの上にあります。線路北側の土手が隠れるのは赤丸C地点で、東伏見公園の西側にある道で、踏切になっていたあたり。8両編成の車両がこんなに短く見えるのだから、写真の奥行きがどれほどのものなのか推察するのは難しくないでしょう。




この「K」のような形の標識は、昭和40年の写真にも写っている。おそらく位置も昔のままではないかと思う。なんの標識かはわからないが推察するに、「16.7」と記されているのは、西武新宿からの距離ではないだろうか? 私にとっては、今回の撮影ポイントがここに間違いないと確信するための唯一の証拠でした。

山口一成さんから「数値が近いので間違えたでしょ。それ(Kのような形の標識)は勾配標ですね。距離標は柱一本で書かれています。」との指摘を受け、ネットで「鉄道標識」を検索したら、次のような図gs出てきた。確かに山口さんのおっしゃる通りでした。「線路標識」で検索してみたらこのような図が出てきました。距離標識や、勾配標識が載っていました。


勾配標識に書かれている数字をパーミルというらしいですね。1000m進むと何m上下するかという数字のようです。勉強になりました。


 電柱が立ち並ぶ間の狭いところから撮影するので、標準レンズでは電柱が邪魔してしまうのだ。そして、写真のカーブの謎は、望遠レンズで撮影するとわずかなカーブでも圧縮されて写るので、急カーブのように見えてしまっていたのです。

クロマチックハーモニカ教室…ひまわり

クロマチックハーモニカ教室…ひまわり】
 5月から通い始めたクロマチック・ハーモニカ教室(於:ひばりヶ丘公民館、毎週日曜日14:00〜)、今回で3回目です。楽譜も読めず、低音部の音を出すのが難しかったり、最初はパニックでした。おまけに、初見なのに「はいこれを吹きましょうか」という進め方にも面食らい、頭の中は「やめようかな」という言葉が溢れまくっていました。



 教室に通い始めたことをFBにアップしてしまったし、やめるのもちょっとカッコ悪いと思い、毎日ユーチューブを聞いて好きな曲を探しながら、自宅特訓を繰り返しました。
 次回は私の提案で、宿題として映画音楽「ひまわり」を勉強してくることになりました。やっと大好きな曲に出会えて、ハーモニカがちょっと楽しくなってきました。

「西東京市かるた」を作ろう…5枚目「み」が完成!

【「西東京市かるた」を作ろう…5枚目「み」が完成】
 3月に作り始めた「西東京市かるた(仮名)」絵札のうち、私が担当している分の5枚目「み…みんなの安全 タヌキが見守る 北原交差点」が完成しました。

「み…みんなの安全 タヌキが見守る 北原交差点」


 今まで制作したかるたは、
「へ…碧山の 夏を彩る カブトムシ」
「お…おっぱいみたいな ガスタンク」


「や…柳がないのに どーして柳沢」
「よ…400年 墓守している ヤブツバキ

しん散歩(3)……田無郵便局、田無用水流末利用

【しん散歩(3)……田無郵便局、田無用水流末】
 写真上=「青梅街道の南側に移転してきた大正11年頃頃の郵便局」(昭和初期頃撮影)。写真下=同じ場所を2018.4.20に撮影。
 明治5年に田無村に郵便取扱所ができてから、5度目の移転。局長も5代目・三田留吉の時でした。引越しといっても、5回目は青梅街道の北側から南側に移動しただけで、距離的には数十メートルほどのわずかな移動のようでした。三代目局長の下田太郎右衛門は「やまじょう」、四代目局長・小山平太郎は「やまへい」の経営者で共に田無の豪商でした。


三田留吉局長・田無町159番地の田無郵便局中庭にて大正14年撮影。大正10年に郵便局で電話事務を始め、12年には50台の電話が町に入りました。写真右端の女性は電話交換嬢。レシーバーを頭に乗せるため、洋風の髪型にしていました。


青梅街道と所沢街道の分岐点のこの場所は「しん散歩」でも何度も登場していますが、この写真は初めて見ました。三叉路が写っていないのでどこの写真かわかりませんでしたが、この庚申塔には見覚えがありました。「柳沢庚申塔青面金剛」(昭和39年撮影)。


田無にも滝があった! と言っても江戸時代の話。『御嶽菅笠』1834(天保5)年に田丸屋の庭に滝の絵が描かれている。これは、田無用水の滝で、昭和6年に早川歯科医院の洋風なモダンな建物ができ、その時もまだ庭に滝があったと田丸屋酒店の奥さんに聞いた。


これが田丸屋のあとにできた「早川歯科医院」(昭和6年建造,平成18年、撮影:伊藤龍也)の外観です。この建物がマンションに変わるのは2017年6月。


近くに住んでいながら、早川歯科医院の写真を1名も撮っていなかったのは今更ながら悔やまれる。さらに、解体されたのにも気がつかなかっった。写真は「田無用水の滝工事中」(2017.6「あそべる小川」より)。まさに早川歯科医院が解体され更地になってしまい新しいマンションが建てられようとする瞬間です。


今ここには、このようなマンションが建って、田無用水の滝だけではなく、水路跡も完全に消されてしまった。


写真には写っていないが、上の写真の手前のマンションのさらに手前にあるm、マンションの裏に回ってみると、滝の高さを創造できる、高さ3mくらいの崖がある。水路は、このコンクリートの崖の上のブロック塀の向こう側を流れて、写真の奥のあたりで、滝になって落ちていたのであろう。


滝になって落ちた水は、先月、これまで永い間営業されていた店を閉店した和田商店さんの脇の路地をめがけて青梅街道を渡る。


田無用水の龍末は、石神井川に飛び込む前に、現在の調整池あたり一帯にあったらしい田んぼに利用され、もう一仕事していたようなんですね。「田無」は、実は「田有り」だったようですね。


さらにさらに気になることがあるんです。「明治末期から大正初期にかけての街並み」(田無市立中央図書館、昭和54年)という地図には、赤丸の所に「竹製樋」とあるんですね。石神井川の対岸に流末を流して、対岸の田んぼなどにも利用していたのではないか、と推察していますが、田んぼがあったかどうかは、未確認です。だとしたら、すごいですね。徹底的に水を無駄にしないで、できる限りの方法で利用したんですね。


「竹製樋(たけせいとい)」とはどんなものだったのか? 推察するに、あのそうめん流しの樋のようなものだったのではないでしょうか。あるいは、雨樋のようなものなのか? 江戸時代にはすでに竹製雨樋が使われていたようですので。写真は石組下水と竹雨樋(『風俗四季哥仙」"五月雨"鈴木春信画)。石でできた下水に雨樋からの雨水が流れ込んでいる様子が描かれている。江戸はすばらしい!


竹製樋とはこんなものだったのかもしれませんね。写真は「海辺の森を育てる会」より転載。

しん散歩(2)……境新道ガード下

【しん散歩(2)……境新道ガード下】

写真(1)=「柳沢第3号踏切」(昭和47年以前に撮影)。盛り土をして踏切を作っている。



写真(2)=「西武新宿線・境新道ガード下(.柳沢第3号踏切と同じ場所)」(昭和48年撮影)。線路の下を掘り下げてガードを作っている。線路を作る前からあった「文化通り」が左方向にあるだけ。



写真(3)=同じ場所を2018年2月3日撮影。ガード下をくぐって新たに境新道が右方向に走るようになった。


 西武新宿線が開通した昭和2(1927)年には、線路の下に盛り土をして「柳沢第3号踏切」(写真1)を造り、南北の通行を可能にした。
 その後、昭和34(1959)年に、旧田無市北部にマンモス団地・ひばりヶ丘団地が造成され、交通量が増え、写真(2)のように高架化された。
 さらに、境新道ができて(写真3)武蔵境駅ひばりヶ丘駅を結ぶバスが、踏切を渡らずにスムーズに行き来することができるようになった。

 西東京市を東から西へ横断する西武新宿線が、ほぼ水平に移動していると仮定すると、ほとんどのの場所は線路と同じ高さあるいは線路より上に地面がある。家の屋根に気をつけて眺めていると屋根の上が見える場所は少ない。
 しかし、線路の下に道路が走っている場所が6箇所あり、そこは土地が低く水害などの影響を受けやすい場所であるとも言える場所であり、電車の中から屋根の上が見える場所なのです。
 その1つ目の場所は、東伏見駅の西250mほどのところにある小さなトンネルがあるところ。線路の南側の東伏見公園に続くあたりを電車の中から見下ろすことができる。
 2箇所目は、西武柳沢駅の西300mくらいのところにある軍用軽便鉄道も使っていたという小さなトンネルがあるところ。3箇所目は、青梅街道のガード下。線路の下を車が走っている。4箇所目は南町調節池の北側の小さなトンネル。調節池の底を遥か眼下に見おろすことができる。北側の民家も見おろすことができる。5つめは南町1丁目にある菫(すみれ)橋北のガード。
 6つめが写真(3)で示した境新道のガード下です。
 西武新宿線沿線はどこも石神井川に向かって傾斜していますが、ガードがあるところは比較的なだらかに、ガードがないところは高い場所から急な傾斜地を辿って雨が勢いよく石神井川に向かって流れ込むのです。