尉殿神社裏の5つの小祠

【しん散歩(7)……尉殿神社裏の5つの小祠】
写真左=西東京市・尉殿神社の裏に並ぶ合祀五社の小祠(昭和57年撮影)撮影。
写真下=同じ場所を2018(平成30年7月)に撮影。


だいぶ前に尉殿神社の裏を散策していた時に、この5つの小さな祠はなんだろうか、と気になっていました。昨日、散歩中に見てなんだろうという気持ちはさらに高まり、とうとう図書館に行って調べてみました。なんと、この祠には旧保谷市の大変な歴史が秘められていることを知って驚きました。
ちょっと長くなるが引用します。「明治政府は発足の基本政策の一つとして、古代の祭政一致を司った神祇官を復活して、神仏分離を強行した。明治憲法発布後は、その思想の中軸とした天皇中心の国是を国民に教化する格好の手段として、全国の神社を皇室の先祖神という伊勢神宮天照大神の下に統一する国家神道の確立を目指した。長い間、権力とは無縁の場で多彩に展開した庶民信仰の神々は、政府の一方的な選択によって統廃合のやむなきに至るのである。
保谷市内域内にあった各神社も、その政策の影響を免れなかった。結果的には下柳沢にあった神明社が、村社となった尉殿神社本殿本殿に合祀され、廢神の対象となった東伏見二丁目の榛名権現(現氷川神社境内末社)の合祀問題は……明治末年に保谷村を引き裂く一大騒擾を起こすのである。その他、各小学校にあった神社の五社(正確には四社か)が、本殿右後方へ置かれたコンクリート造りの小祠となって境内末社に合祀されたのである。これらの小祠は小字の地を離れてしまえば伝統的な祭祀や講が行われなくなるから、合祀といっても実質は廃神なのである。
 第六天社…旧大門(泉町2丁目)
 第六天社…旧上宿内宮山(現田無市谷戸町1丁目)
 稲荷神社…旧苗木山(中町6丁目)
 稲荷神社…旧立野(本町4丁目)
 稲荷神社…旧所在不詳
いずれも各字の血縁・地縁的な氏神か、産土神であったものと思われ、それなりの祭祀と信仰があったはずであるが、いま五社ともその祠の中には神体も見当たらず、形骸化した五つのコンクリートの小祠として、わずかに各字の庶民信仰を伝えるのみである」(『保谷の石仏と石塔二』保谷市役所、昭和59年6月)。



尉殿神社本殿正面に、由緒書きのようなものがあった。「境内社五社」とあるが、詳細については書かれておらず、どこにあった神社を合祀したのかについてはわからない。