「犯罪公論」(昭和7年1月号〜3月号)に連載されたポリドリ著、佐藤春夫譯「バイロンの吸血鬼」にも掲載当時の木村荘八が描いた挿絵が掲載されているということが、今回の購入のきっかけになった。

当時は、まだサインのスタイルが決まっていなかったようで、「木画」とあるものや「S.Kim」などの表記が混在しているのも面白い。



挿絵:木村荘八、ポリドリ著、佐藤春夫譯「バイロンの吸血鬼」



挿絵:木村荘八、ポリドリ著、佐藤春夫譯「バイロンの吸血鬼」



挿絵:木村荘八、ポリドリ著、佐藤春夫譯「バイロンの吸血鬼」


実は、年が明けてから、一番に興味を持っているのが、木村荘八の装丁や挿絵だったので、この本をすぐに飛びついてしまったということだ。部屋には60冊ほどの木村荘八の装丁本や資料などが広げたままになっている。


フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』によると、木村荘八とは
「木村 荘八(きむら しょうはち 1893年8月21日-1958年11月18日)は(*追記、明治26年8月21日、東京・日本橋に生まれる。)東京府出身の洋画家、随筆家。牛鍋チェーン店いろは創立経営した木村荘平の妾腹の八男として、東京市日本橋区(現・中央区)吉川町両国広小路(現在の東京都中央区日本橋)のいろは第8支店に生まれる。父の死後、浅草のいろは第10支店と京橋のいろは第3支店に移り、帳場を担当しながら美術家を志す。著書『東京の風俗』所収の自伝的文章「私のこと」によると、旧制京華中学校4年生の頃から学校へはほとんど行かず、芝居見物と放蕩に熱中したという。


旧制中学卒業後、1911年、白馬会葵橋洋画研究所に入学。1912年、岸田劉生と知り合い、ヒュウザン会の結成に参加。1915年、劉生たちと共に草土社を結成、1922年まで毎回出品する。1918年からは二科展や院展洋画部にも出品。院展出品作『二本潅木』で高山樗牛賞受賞。
1922年、春陽会創設に客員として参加。1924年、春陽会会員。1928年、『パンの会』を発表。
1937年には永井荷風新聞連載小説で代表作の『濹東綺譚』や、明治初期の横浜新開地を舞台にした大佛次郎の時代小説『霧笛』、『幻灯』、『花火の街』などに挿絵を描いた。新派の喜多村緑郎を囲み、里見紝大佛次郎久保田万太郎等と集まりを持っていた。


『東京の風俗』、『現代風俗帖』など多数の著作も出している、晩年は東京の明治初期からの風俗考証に関する著作が多く、数度再刊された。多忙のため病気の発見が遅れ、脳腫瘍の悪化により亡くなった。歿後刊行の『東京繁昌記』で、1959年に日本芸術院恩賜賞を受賞。
異母姉木村曙や同母兄木村荘太、異母弟木村荘十はいずれも作家。異母弟木村荘十二は映画監督。」
とある。