前回は挿絵家の失敗を指摘しましたが、執筆者である林不忘にも失敗はあったようです。

林不忘自身が、もう一つのペンネームで書いた『消印は語る』(「大阪毎日」昭和6年3月)には、『丹下左膳』出の失敗談が


「えゝいつ! おうつ! 焦立った左膳、喚くより早く諸手突き─。」 えらいことになってしまった。が、僕は気がつかない─気がつけばそんな間違いはしないのだが──新聞に出ても済ましていると二三日して、この時は六七通葉書が来た。
「いくら丹下左膳が達人だからって、片腕のやつに諸手突きはないだろう。どうだ、恐れ入ったか。」
というのだ、僕はすっかり降参ったが……。


と、書かれている。小田富彌も挿絵で失敗したことがあるようで、
「昼寝をしている左膳が、腕枕かなにかしていて、立派に右手のあるのがあった。よろこんだ読者の葉書が幾通となく社へ舞い込んで、小田氏に頭を掻かしたとか聞いている。」
と、他人の失敗談まで紹介している。


出る杭は打たれるのが世の常で、『丹下左膳』のあまりにも破天荒な内容と人気に業を煮やしたのか、しっとなのか、マジギレしたクレームもあったようだ。



こんなシーン一一つをとっても、
三田村鳶魚は「左膳は相馬中村の士で、しかも徒士(かち)だというから、ごくかるいものだが、武士に階級があったことを考えると、天下の直参しかも旗本の殿様である鈴川源十郎に対し『おい1源十、鈴源』と呼ぶのは到底ありえない。」(『大衆文藝評判記』桃源社、昭和47年)と手厳しい。


さらに三田村は、
「この刀でずばりとな、てめえ達の土性ッ骨を割り下げる時がたまらねえんだ。……」という左膳の言葉に、「奥州・相馬から出て来て間もない者が妙に江戸がかった言葉を使うわけがない。それこそ『笑かしゃアがる』とでも言ってやりたいところ……」と、激しく突っ込みを入れる。


三田村にとっては「オメエラの土性ッ骨さホンリ下げるトギがたまんねんだべ……」てな具合にやれば満足なんでしょうかね。ホンだらヒーローさなれねえべっちゃ。