「丹下左膳」が掲載されていた昭和9年8月25日夕刊「名古屋新聞」を入手した


前にも見たように、「丹下左膳」は昭和2年10月から3年5月まで197回にわたり大阪毎日新聞東京日日新聞林不忘長谷川海太郎)「新版大岡政談」として連載された。題名からもわかるように、当初は脇役として登場していた丹下左膳だが、執筆者さえ予想もしていなかっただろうニヒルな剣士・左膳に人気が集まってしまったのだ。


昭和8年6月7日から11月5日まで大阪毎日新聞東京日日新聞に再登場する時に題名を『丹下左膳』と改めた。後に昭和9年1月30日から9月20日まで読売新聞に連載された。読売新聞への移動は昭和8年10月毎日新聞社で起きた「城戸事件」が原因と言われている。会長・城戸元亮が任期中に職を追われ、58人が連袖辞職し、林不忘も行動を共にし、『丹下左膳』の連載をやめることになった。


ちょうど折よく販売拡張を図っていた読売新聞が『丹下左膳』人気に目をつけ、タイトルを『新講談丹下左膳』として、連載の紙面を提供した。


工藤英太郎『『丹下左膳』を読む』(西田書店、1998年)によると
「『読売』は昭和8年・49万4000部、9年・57万7000部、10年・66万7000部と発行部数を伸ばしている(『読売新聞八十年史』による)。『毎日新聞百年史』は「読売の発展は城戸事件で声価を落とし規制の上がらぬ間げきを縫って行われたもの」としているが、林不忘の「丹下左膳人気」が一役買ったことも十分考えられることである。」として、新聞小説が販売に及ぼす影響力を讃えている。


今回入手した名古屋新聞は、発行日から読売新聞に連載されたものが、地方配信されたものだと思われる。この辺からも丹下左膳の人気ぶりを伺うことが出来る。





「小田富彌」の文字がなぜかゴチック体で組まれており、挿絵家名を強調しているかのように見える。新聞社は、『丹下左膳』の人気は小田富彌が描く左膳に因るものが大きいと判断したのではないだろうかと推察する。今回入手した新聞には左膳の絵がなくて残念だが。