今さらながらケテ本に物申す?

 
《なるほど『書痴の散歩』を筆頭とする一連の随筆集には、多大の敬意を払うに断じて吝かではなかったものの、短いエッセイ、短い論文、短い随想などの収録に、思い切ったよそおいを凝らした装幀を、敢えて施す昌三さんの興趣には、どうにも賛意を表し難い私であった。それら過重装飾の装幀本の幾冊かは、譬えるなら、七五三のおまいりに、親の好みによる華麗な衣裳の重みに、歩行し兼ねている栄養不良児を、私に連想させたからである。》と、これでは、批判ではなく単なる言いがかりでしかない。文章の尊さを文章の長さで計るのでは、金の像を重さで計るようなものである。
 
《当の昌三さんとしては、新しい装幀試作のためにも、中身のない書籍は造れぬまま、若干の原稿が成るのを待って、それを中身に充てたものでもあろうし、昌三さんとしては、変容異想の装幀の制作に、むしろ主眼を置いていたのかもしれないが、私には中身と装幀の不釣合や不均衡が、どうにも救い難い悪癖のように映って仕様なかった。これが、私をして積極的に”昌三本”へ手を出さしめない一因でもあった。》とあるが、果たして装幀家が、その本の善し悪しを判断して、装幀のありようを変えるべきなのだろうか? かなり疑問が残る。装丁家はどんな本が来ても最善を尽くすべきで、内容の価値判断は発売後に読者なり社会なりが判断すべきものだとおもう。