昌三なき今だからこそ?

shinju-oonuki2005-11-07

 『はだかの昌三』には、巻頭から過激な斎藤昌三批判が続く。長尾桃郎の文章には、ここで言わなければ腹の虫が納まらない何かがあるかのように、ゲテ本についても叫び続ける。まるで亡き斎藤への魔女狩りであるかのようだ。
 
《……私は、『書物展望』の購読者であったことはない。残本は雑誌の宿命、機会を得て一纏めに安く買えば──いや貰えば、事は足ると図々しく独り決めしていたくらいだった。結局、現実にはそのとおりになった。(尤も、それは何らかの代金で相殺したと記憶する)。それくらいだから、昌三さんの随筆集五冊も『書痴の散歩』を、ずっと後年、古本で求めたほかは、一冊として買ったものはなかった。贈られて然るべきもののように、これまた私は独り決めしていたし、事実またそのようにもなった。しかもその贈呈本にお礼を出した記憶がない。》と、自らの手で、こんな恥ずかしいことを文章にして後世に残していいのだろうかと、書き手の長尾の名誉の方が心配になった。書物の献本を無心するのはお金を無心するのと同じで、この文章を読んでいるとなんという恥知らず、という気持ちで一杯になった。
 
さらに《……まさしく私は横着者の好典型でもあった。それというのも、一つには、昌三さんが余りにブック・メーカーであったことに、私は軽い反感さえ抱きかねなかったからである。》それならなぜ、斎藤の生前、忠告も反論もせずに、没後何年も経ってから、こんな冊子で注文をつけたのだろうか。